いくりんのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

ツブレル

 つぶれそうなまでの問題を抱えながら生きていきたくはない。つぶれてしまえばまた一からやり直せばいいとは言うものの、それが周りに与える負の影響は大きい。

 

 企業に所属していると、その企業の業績がどうなっているか、何となくでも把握しているものだ。売上と利益という分かりやすいただの見てくれに騙されて、財務内容の脆弱性なんて知らなかったということなんてよくありそうなものだ。所属企業が倒産してしまえば、職を失い、不安定な生活に身を置かれることになるかもしれない。もちろん、転職のいいきっかけとも言えなくはないが、自社が倒産したなどという厄介な状況には極力遭遇したくない。従業員である自分が悪いなんてことはなく(選択の失敗という問題はあるが)、経営者の戦略や見通しの甘さや管理能力の問題が多分にあるのだが…。

 とはいえ、多くの人は自社の倒産に巡りあうことはないだろう。それよりも現実的なのは、得意先が業績不振やコンプライアンス上の問題で倒産したといったものだ。得意先が倒産することは自社に直接的な関わりはないかと思うかもしれないが、大いにある。

 

①信用リスクってなに?

 例えば得意先が倒産した場合、大きな問題は自社が得意先に有していた債権が焦げ付くことだ。企業間の取引では商品の提供と代金の支払いをその場で同時にやり取りする(同時履行)というよりは、商品の提供を行い、販売代金を後日まとめて支払ってもらう。これを信用取引といい、このような掛け払いのリスクを「信用リスク(与信リスク)」と言う。商品を引き渡すということはその商品に係る現金(商品代金)を得意先に貸していることと実質的には同じになる。貸したお金は期日までに返してもらわなければならないが、この返してもらえないリスクが信用リスクである。人がお金を誰かに貸すときのことを考えてもらえば分かるが、その相手が貸したお金をきちんと返してくれるか、返すことができる資金を確保できるかということがお金を貸すときの判断基準になる。要するに、人ならば相手のことが「信用」できるかということで、これが企業になると、経済的な支払能力のことを「信用力」と言ったりするわけだ。この信用力を測る指標となるのが、企業の有している決算書や市場における地位、商品力やブランドイメージ、経営者の人柄や能力などになるわけだが、ここでは深入りせず、企業が倒産するということはどういうことなのかを説明していく。

 

②なぜ企業は倒産するのか?

 ビジネスパーソンであれば、一定の財務諸表分析能力を有していることが理想とされるが、とは言っても日々の業務や商品の販売に追われて勉強する余裕がないという人も多い。近年では書店で非常に読みやすく理解しやすい会計本が売られていることも多く、忙しい社会人にとってはありがたい話ではある。もちろん、本に書かれていることを理解したとしても実際の業務においてそれが繋がる瞬間がなければいまいちピンと来ないという状況になりかねない。どのようなビジネスに関する理論も実践を通して理解できることは多い。それは理論がビジネスの実際の積み重ねによって成り立っているから当然と言えば当然なのであるが。

 企業はなぜ倒産するのかという疑問に答えるには財務諸表分析を通して論理的に倒産への道筋を示していく必要があるわけだが、ここでは簡単に、「手元の資金がなくなるから」というふうに捉えておいていただきたい。倒産は債務の支払いができなくなった状態のことであるから(※倒産というのは法律用語ではない。一口に倒産と言っても、破産から民事再生、会社更生、手形の不渡りによる私的整理など様々な類型がある。)、支払うための現金がなくなってしまえば企業は倒産せざるを得なくなる。その現金は単に商品を売ることによって得意先から振り込まれた現預金だけでなく、土地や建物などを売ることで得られる資金も含まれる。企業が常に売上を伸ばし黒字を確保していればある程度問題はないものの(※黒字倒産などの場合もあるがここは単純化のため省略する。)、そうは行かない企業も多い。赤字体質で保有する現金が減っていき資金繰りに行き詰まると、得意先から商品代金を回収し現金化するまでの時間をやり繰りしていく余裕がなくなる。そのため自社の資産を売ることによって何とか現金を確保することになる。このような兆候が見られると非常に危ういと言える。

 

③得意先が倒産すると何が困るのか?

 企業が営業活動を行う以上、常に安定して固定的な信用力を有するなどということはあり得ない。常に流動的なので衰退していく企業があるのは当然だが、企業の業績が悪化し続けて倒産してしまうと多くのものが失われてしまう。

 自分が所属する企業の得意先が倒産してしまうと、困ることが多くある。一つは、貸したお金が返ってこないことだ。①で説明したように、得意先に商品を販売するということは実質的に現金を貸していることと同じであるため、得意先が倒産してしまうと貸した現金が返ってこないということになる。それはある意味詐欺的で残酷なものなのだが、得意先が倒産してしまうと、その会社の社長がたとえ金持ちだったとしても、自社の貸したお金は返ってこない。自社の損失になるわけだ。これを貸し倒れ(焦げ付き)と言ったりするが、貸し倒れによって返ってこなかったお金を稼ぐためにはその何倍もの追加の売り上げが必要になってくる。その代償は大きい。

 二つ目は、貸し倒れの処理に追われることで通常の営業活動に悪影響が出るということだ。得意先が倒産すると貸した金が返ってこないが、そうは言っても何とかして少しでも返してもらうように直接現地に向かって交渉したり、弁護士に相談して方策を練ったりする。徒労に終わることが多くてもこの債権回収の努力とその事後処理はしないわけにはいかないのだ。このような後ろ向きの仕事が増えることで、企業の本来の営業活動に充分な時間を割くことができず、従来の販売活動だけでなく新たな事業への投資やビジネスの構想を練ることが難しくなる。

 三つ目は、会社の損失は金額的なものだけでなく、信用不安にも繋がるということ。単に損失が出るだけならまだしも、その情報はあることないこと周囲の企業に広まり、会社の信用力に影を落とすことになる。貸し倒れに遭うことはある程度仕方ない面もあるのだが(誰にも未来は完全に予知することはできない)、それが目立つようになって来るとリスク管理能力のない企業として信用ならないと判断される恐れがあるわけだ。これによって商売に悪い影響が出る可能性は否定できない。

 四つ目は、会社内の士気の低下に繋がるというものだ。分かりにくいかもしれない。企業の営業活動は売上を上げ利益を確保することが基本であるが、せっかく売上を上げたとしても、代金を回収できないとなると、勘定合って銭足らずである。これを従業員の心理的な側面で捉えるなら、営業努力をしても会社の利益にならず報われない状況は営業活動のモチベーションを下げることになる。従業員の活力のある会社は良い会社のひとつの側面でもある。会社は経営者の道具ではなく、人によって動かされているということはこのような点にも現れている。

 他にも得意先の倒産によって被る不利益として自社の資金繰りの悪化、最悪の場合倒産ということも考えられる。得意先から現金を回収できないとなると、その現金を回収することを見越して経営していた自社の資金繰りが行き詰まることなり、最悪の場合、自社も倒産する可能性がある。これを「連鎖倒産」と呼ぶが、特に自社にとって重要顧客だった大口の得意先が倒産した場合、この悲惨な事態が懸念される。

 得意先の倒産による影響は細かく見ていけば他にも考えられるだろうが、大まかに見ていくと以上のようになる。得意先の倒産は自社にとって非常に困る問題で、できるだけ避けなければならない。そのためには信用リスクを管理する必要がある。それが与信管理の要諦であるが、それについてはまた気が向いたときに細かい論点を上げながら説明していけたらと思う。

ホントの時間

淡い恋心を抱いた若い男女がいる。二人がどういう関係にあるのか、まだ誰も知らない。

 

 夕暮れ時、思い思いに街に繰り出した男女が偶然たまたま出逢う瞬間、どことなく心踊らされる。お互いの趣味やちょっとした日々の思いつきの話に花を咲かせていると、気付けばあっという間に時間が過ぎ去り、夕闇を街の灯りが照らし始める。そろそろ家に帰らなければならない、夕食の時間だと、いつもの当たり前の日常を思い起こしていると、自分がどこか当たり前ではない不自然な感情の揺らめきに遭遇していたことに戸惑う。

 

君と二人で立ち話しているときのこの心躍る瞬間はまるで時が止まったように幸せな時間だ。

 

 それが世界の真理だと言わんばかりに、時計の針は時を刻み続け、一分一秒と時は前に進み続けている。だが本当に時計は同じ時間を刻み続けているのだろうか。だって、どう考えたって、君と二人でいるとき、時間は止まっていた。それが大袈裟だっていうなら、この時間は永遠に続くものだって思っていた。気付けば一時間、二時間、三時間・・・。どうしてこんなにも時間が勝手に進んでいるんだろう。あっという間に過ぎるってレベルじゃない。これは神様が二人の時間のネジをぐるぐるぐるぐる回して調節しているとしか思えないレベルだ。

もう夜も深くなってしまって、街に人がいなくなってきた。何も世界は動いていないように見える。この真っ暗な空の下に存在するのは二人だけのアンバランスな感情だ。呼吸をするたびにどんどん苦しくなる。これが恋する気持ちなのかと動揺している自分がいる。明日も、明後日も、これからもずっと一緒にいたいという気持ちが募る。こんな気持ちを抱いていることなんて、誰も知ったこっちゃないだろう。人はみんな自分の人生を自分の好きなように生きたいと思っているはずだからね。じゃあ、その生きたいと思う自由な世界は、人の数だけ、思い思いの時を刻み続けているのかもしれない。

 君とこうして過ごしている時間は同じ時間を刻み続けているのだろうか。もしかしたら、とても退屈で今にもさっさと帰りたいだなんて思っていないよね?自分たちは同じ楽しいひとときを過ごしているよね?そんな当たり障りのないことに不安を感じたり、喜びを覚えたりしながら、本当に時間の進み方ってよくわからないと納得し合えたらなんだか清々しい気持ちになれた。でも、一日が終わろうとする今もまだ胸にモヤモヤがずっと残っている。だって、こんなに心踊らされる相手に出会えたのは初めてだから。だから、多少不安な気持ちを抱いているんだ。「こんなに好きになっちゃっていいの?」ってね。

 

 


日向坂46 『こんなに好きになっちゃっていいの?』

こんなに好きになっちゃっていいの?

 すごく久しぶりにブログを書くことになりました。日向坂46の3rdシングル「こんなに好きになっちゃっていいの?」が発売されたことに喜びを感じております。9/26には3rdシングル発売を記念してさいたまスーパーアリーナでワンマンライブが開催されました。私も、ライブビューイングで観戦しましたが、非常に満足感の高いライブでした。それと同時に、アイドルファンが陥りやすい一抹の寂しさを抱いています。それについて触れていきたいと思います。

 私は根本的には欅坂46の方に傾倒している面があるので、ひらがなけやき時代の歯がゆい思い出の記憶が印象に残っています。特にzeppツアーをやっていたころの内に秘めた熱量の胎動のようなものを間近に見て感動した記憶があります。後に2期生、3期生という強力なピースを加えて走り出していく精鋭集団である現在の日向坂46に、そのような得体の知れないたくましさのようなものを感じることは少なくなりました。それは、彼女たちが注目され、認められ、人気を博していったという状況が、彼女たちをアイドルにしてしまったからだと言えると思います。彼女たちは元からアイドルだったわけですから、それはいささか不可思議な言い方かもしれません。しかし、彼女たちがひらがなけやきとしてあまりにも中途半端な立場に置かれていたことを思い起こすならば、日向坂46として独立して数ヶ月で3枚もシングルを出すに至って、世間から注目され一定の評価を得ている状況に対して、良くも悪くも彼女たちが遠い存在になっているという実感を抱かざるを得ません。坂道グループのひとつの自立した“アイドル”として歩みだしたという事実は非常に好ましいことではあるのですが、彼女たちがアイドルというフィルターを通してしか見ることができない尊い存在になってしまっているのもまた宿命的な事実です。

 私たちはある言葉や現象に対して市民権を得るという言葉を使うことがあります。例えば、ピコ太郎のYouTubeで始めたPPAPが世界的に大きく広まって、日本でも紅白歌合戦に出場するまでの大フィーバーとなった。このような現象を指してPPAPは市民権を得たなどと言ったりします。ここで言う市民権とは、○○市の住民として住民税やその他もろもろの税金を納める代わりに、その地域に居住したり、選挙権を行使したり、一定の発言や思想を自由に展開させることができる権利を指しているのではありません。特定の一部のユーザーやファンに向けられていた現象が広く認められて一般化することを言います。

 日向坂46はある意味で広い意味の市民権を得つつあると言えるのではないかと思うのです。ひらがなけやきの一員として彼女たちが活動していたころ、彼女たちは欅坂46というグループに実質的に代表されていたと見ることができます。実質的代表(virtual representation)ということはつまり、彼女たちに直接的に市民権は与えられないけれども、欅坂46を通して、実質的には世間に認められているという見方です。しかし、欅坂46というグループの一員ではありましたが、ひらがなけやき漢字欅と根本的に違うハッピーオーラをテーマにしたグループでしたし、漢字欅のある種ダークでカッコよい路線とは一線を画したものでした。しかしながら、彼女たちには当時は世間的に名前を持つことが叶いませんでした。ある種、一般的に女性が男性の家に嫁いで、自らの姓が実質的に消滅してしまうことと似ています。今でこそ男女平等普通選挙権が当たり前の世の中になっていますが、自らの姓を失うことは名前を失うことであり、○○家の人間という括りで女性には市民権は保証されない時代が非常に長く続いてきたという歴史があります。それとこれを同一視するのはいささか無理な話ではありますが、実質的な代表ではなく、自立した坂道グループとして「日向坂46」が誕生したということは、狭い意味で彼女たちが市民権を得たということであり、シングル発売とイベントの開催を通じて広い意味で市民権を得ている過程にあるということができます。

 これから先、どのような展開が待ち受けているのかわかりません。エースの小坂菜緒は果たしていつまでセンターポジションを務め上げるのか、他のメンバーによるセンター交代はあるのか、紅白歌合戦に出場はできるのか、クリスマスライブやドラマはどんな内容だろう、影山優佳や濱岸ひよりは本当に戻ってくるのか、戻ってきた日向坂46にどのような化学反応が生じるのか、などなど、非常に楽しみな材料がたくさんあります。ある種、一定のラインを超えて羽ばたいていっている感が嬉しくもあり寂しくもあり、それがアイドルを応援することの宿命だなあと感じています。

見えないものを理解する難しさ

 しばらくブログを書いていないことをメール通知で知らされたわけですが、どうも最近はいろいろやることがあって書いていませんでした。この期間、平日の仕事に対して、休日は東京、大阪、観音寺(香川)、笠岡(岡山)に行っておりました。帰省であったり、友人との交流であったりしたわけですが、ある程度有意義に過ごせたのではないかと思います。

 アイドル関連で行くと、欅坂46の長濱ねると日向坂46の柿崎芽実が実際に卒業ということで、ファンにとっては複雑な心境で二人のアイドルとしての最後を見送ったことと思います。

 アイドルのファンができることは非常にちっぽけなことで、握手券を買って握手会でお話をしたり、ライブで推しメンタオルを掲げ、推しメンカラーのサイリウムを振りながらその雄姿を眺め応援したりすることくらいしか大まかに言うとできません。もちろん、お金を払ってアイドルに働きかけることだけがアイドルを応援することではありません。彼女たちが出演するバラエティ、ラジオ、ドラマ、SNSなど、様々な媒体を通じてその美しさや人間性に惹かれ、興味を持ち、注目することだけでもアイドルを応援することにはなり得ます。アイドルと近い距離で直接話すことによって親密性を高めたいと思う人もいれば、遠くから眺めていたい、応援していたいと思う人もいます。運営側としては、CDを大量購入して握手会に来てくれるファンの方がありがたいだろうとは思いますが、アイドルとしては、少なくとも自分を応援してくれるファンがいることはありがたいことだと感じるのではないでしょうか。

 話が変わるようですが、難しい問題があります。人は他人の気持ちが理解できないという問題です。これは程度の差はあれ、一定の真理だと思われます。どんなに好きな相手でも、どんなに心を許した相手でも、その相手が何を考えているのか、その人の思想や生き方に、完全に同意するということは非常に難しい。それは諦めの境地に達して、所詮他人だから解らなくて当然だよねということではありません。人は解らないことを解ろうとする過程にこそ成長のチャンスがあり、その思考が徒労に終わろうが有益であろうが、頭の中で得体の知れないものの本質を探ろうとすること自体は意味のあることです。また、解りあえたときの喜びや充足感は何物にも代えがたいものがあります。

 目に見えるものを理解することは比較的簡単です。あの人はお笑い番組を見ていて笑っているから楽しそうだな、ドラマを見ながら泣いているから悲しいor感動しているのかな、野球の試合でチャンスで三振をして負けてしまったことに悔し涙を流しているなとざっくりと理解することができます。それが実際に正しいかどうかは本人に確認しないと解りませんが、ある程度可能性が高いと言えるでしょう。しかし、私たちの生活において、目に見えない他者の気持ちを理解することの方がはるかに多く、またそれがはるかに難しいことは火を見るよりも明らかです。人間は感情を持った生き物ですが、感情を表現することはできても感情を誰かに正確に伝えることは難しいように、誰かの感情を正確に読み取ることもまた難しいのです。感情というあやふやなものに絶対的な形容詞を付けること自体がナンセンスなのかもしれませんが、誰かの気持ちが行動や言葉に明確に表れない、見えないものを慮ることが、他人との付き合いにはどうしても必要になってきます。あの人は何も言わないけれど、こうすればあの人は喜ぶだろうとか、こうすれば世間様に印象が良いだろうといった、日本的な空気を読むという考え方に対しては、めんどくさい面もありますが、空気を読むというよりも、相手側が何を感じるだろうかということを想像することが重要です。それは、時には無意味なことなのかもしれません。想像したところで理解できないこともたくさんあります。他人を傷つけ、それに自らも心痛めることもあるかもしれません。ただ、その歩みを止めてしまってはならないと思うのです。

 アイドルのファンが好きなアイドルのことをどの程度理解してあげられているか。恐らく全然理解できていないと思います。それは仕方のないことです。彼女たちとともに過ごす時間が少なすぎるからです。アイドルがどのような気持ちで舞台に立ってパフォーマンスしているのか、私たちはたいていの場合、想像でしか語ることができません。後日、雑誌やドキュメンタリーで当時の状況が細かく説明されることがありますが、それは想像の補完に過ぎません。とはいえ、アイドルであっても好きな人について語るとき、その人についての情報をたくさん知りたいと思うのは、そのアイドルの良さを理解したい、誰かに伝えたいからというのはもちろんのこと、そのアイドルの気持ちを第一に理解して、幸せにしてあげたい、幸せになってほしいと願うからではないでしょうか。中途半端な情報で、不十分な想像力でアイドルを応援せざるを得ない状況は危うい。その中途半端な想像力によって、気付かぬうちに、大好きなはずのアイドルの寿命を縮めてしまうことになっているのかもしれません。

やさしさが邪魔をする

 どこかで聞いたことのあるタイトル、どこかで聴いたことのあるメロディー、どこかで訊いたことのある別れ話である。

 何気ない日常を過ごすそのカップルはお互いのことを理解していることからくる一定の余裕が感じられる。彼は彼女の理解者で彼女を心から愛しており、彼女も彼の愛情を非常によく理解しており、感謝もしている。傍から見ると順風満帆のカップルではないか?

 好かれあう男女がどうして別れなければならないのか理解に苦しむことがある。刺激が足りなくなった?親や親族の反対を受けた?どうも違うようである。彼女には夢があるらしい。その夢を叶えるためには彼と一緒にいることは不可能だという。彼は言うだろう。「○○(彼女)の夢を俺は近くで応援したい」と。しかし、彼女は独り言のように言うのだ。「○○(彼)のやさしさに甘えたくない」と。彼女は決して彼に対して大きな不満を頂いているというわけではない。自らとともに歩んでいくことは彼にとって負担になると考えているのだ。彼女の考える夢は二人で紡いでいく未来ではない。お互いの描く夢は違う。

 どんなにそれが苦しいことであっても、そう簡単に受け入れられることではない。彼女がどれだけ彼に対して申し訳ないと思ったところで、彼は容易にあきらめることはできない。人はわがままな生き物である。愛した人を簡単に手放せるほど「よくできた」人はあまりいない。自らの幸せと彼女の幸せ、そのどちらも取るためにはどうしたらよいのか。はたまたそのようなことは可能なのかと悩み苦しむ夜。だが、彼は彼女の夢とともに歩くという選択をしない決意をする。彼女のこれからの未来を思うとそれがベストな選択だと考えたからだろう。その利他的な心は「やさしさ」や「思いやり」と言ってしまえば綺麗だが、偽善や欺瞞に繋がりかねない脆さを秘めている。

 彼女のために別れる決心をした彼は、彼女との寂寥の恋を噛みしめる。彼女の夢を応援することは彼女を幸せにすることになるのかどうか実際のところ分からない。果たして何のために、彼女を失うのか。何のために、悲しみに耐えているのか。ただただ、彼女に対して悲しい素振りもつらい言葉もこぼしたくない。それはある意味、かっこ悪い男のプライドのようなものだ。そんな強がりが、偽善的なやさしさが、本当に二人にとって良いことなのかと冷静に批判することは誰にでもできる。しかし、その選択が、その生き方が正しいと自らを納得させるために、彼は離れていく、愛する人の背中を追いかけることなく見送る。ソファーの上にぴたぴたとこぼれ落ちる涙はどうしようもなく塩辛い。

 

 日向坂46の2ndシングル「ドレミソラシド」のTypeCに収録されている「やさしさが邪魔をする」。加藤史帆渡邉美穂、上村ひなのの三人が表現する歌声と世界観が非常に魅力的な楽曲となっている。

https://www.youtube.com/watch?v=88l4oRQGwB0

アイドルさんについて

 こんにちは。非常に気楽な文章も書いていこうかと思います。

 日向坂46の2ndシングル「ドレミソラシド」が7/17に発売されますね!デビューシングルが3/27だったので、もう来たかという感じです。センターは前回に引き続き小坂菜緒ちゃん。可愛いですよね。握手会に行ったことがありますが、関西弁で喋ってくれると、語彙力を失って、ただただ「いいなあ」となった記憶があります。いや、普段から関西弁には慣れているんですがね。周りが関西弁ですので。しかしながら、アイドルの関西弁というのは良いものです。ちょっときつめの喋り口調が、なかなか気持ち良かったりするものです。

 最近は精神的に大変なことも多く、アイドルの現場に行くモチベーションがないため、少しモヤモヤしています。残念なオタクだなあと思わなくもないですが、興味が無くなったわけではなく、相変わらず普段からアイドルの曲やバラエティはチェックしています。正直、推しメンがいない期間が続いており、欅坂、日向坂以外でもSTU48などなど、好きなメンバーはたくさんいるのですが、ちょっと物足りないと言えばそうなります。

 先日、守屋茜さんの写真集を購入してみて、彼女の笑顔が非常に可愛く収められていて良い写真集だと思いました。最初、長濱ねるさんや菅井友香さんの写真集が出たときに、なんだこの若い男性をターゲットにしたポルノグラフィーは!と思ったのが懐かしく感じた次第です。守屋さんが女性ファンが多いということもあり、それを意識した構成になっているのかなとも感じました。とはいえ、男性ファンが求めているのはもっと露出多めの写真だったのではないかとも思いました。多分、その方が売れますしね。

 

 好きなものに対する情熱を失わずに生きることはなかなか難しいなと感じる今日この頃。好きな人に対する愛を持ち続けて、一生寄り添うことができる人って素晴らしいなと思っています。その愛の過程には、簡単には割り切れない複雑な感情の迷路が存在していて、それを抱えていながらも毎日を過ごしていくことってすごいことなんだろうなと感じます。鬱屈した日々に一筋の光が差した、それがアイドルなのか、運命の人に見立てた恋人なのか、生涯寄り添う幼馴染なのか、何であれ一人で生きていくことは難しいのでしょう。

 

ひとりの閉じこもりがちなモノクロな世界が他人と出会い交流をし恋をすることで彩られ光り輝くようになり、たとえその恋が儚く散ってしまったとしても、世界は儚く移ろいやすく、生きるとは変わっていくことなんだという実感とともにその人と出逢って過ごした季節が思い出されるんだろう。

2016/11/16(二人セゾンを前に)

男性性と歴史研究

前回、大学で西洋史を学んでいたときに興味を持ったのがmasculinity「男性性」という話をしました。今回、この男性性について少しだけ掘り下げてみます。

 私たちが普段の生活で男性性という言葉を使うことは滅多にないと思います。「あの人の男性性はどうかしてる」「彼の男性性に惹かれたんだよね」といったことは、まず言わないと思います。とは言え、男性性というのは簡単に言えばmanliness「男らしさ」のことなので、誰かが男らしいとかそうではないかというのは割と使う表現だと思います。

 私たちが男らしいと言うとき、それはどのようなことを指しているのでしょうか?背が大きい、筋骨隆々で力持ちであるといった身体的特徴から、家族を養っていくために必死に働いてお金を稼いでいるという社会的性質や、言葉や行動で威厳のある態度を子供に示したりする道徳的性質など様々なものが挙げられると思います。ただし、それぞれはそれぞれの「男らしさ」として完結していて、その性質は何かと比べて変化するとかそういったものではありません。要するに、「男らしさ」といったときにそれは要素の列挙でしかないということです。

 しかしながら、私たちは男らしさというものに何らかの社会性を付与しようとします。社会性を関係性と置き換えても良いでしょう。背が大きいのは、それ自体は実際の身長に基づいていますが、大きいというのは社会的に見て相対的に背が高いということであり、他の一般的な情報を知っているからこそ判断できることです。家族のために働くという行為は、生活のために必要だからという実際的な問題ではありますが、男が稼ぎに出るということが社会的に見て立派だという価値観が存在しているからこそ正当化されます。それは男女の「領域分離」の問題に関わる今日でも非常に重要な論点です。

 男らしさというものには社会的・文化的な制約が付いて回り、そしてそれは女性との関係性において理解されることがしばしばあります。誰かがある人を「男らしい」とか「男らしくない」と言う場合に暗示しているのは何らかの価値判断の基準です。つまり、何らかの物差しを参照するとその個別の要素や対象はどういう価値を有しているのかあるいは有していないのかということを考えているわけです。そしてその物差しは社会的・文化的に決定され、人々の中に意識的/無意識的に広まっている雰囲気に依存します。例えば、日本人が日本で生活していれば、無意識のうちに日本的な男女の関係性に関する価値観を身につけているわけですね。その物差しに基づく男らしさのことを、ここでは「男性性」と言います。要するに、男性性とは、個人の行為や選択が社会や文化の理想や規範に基づいて表現されたものを言います。従って、男らしさという多種多様で雑多な要素(これには、以上に挙げたものの他にも、男性が男性との間で公的/私的な関係性を持つことも当てはまります)を包括的に結びつけて規範的に表現したものが「男性性」となります。

 男性性という概念は、政治史研究に重要な影響を与えたと言われます。従来の歴史研究における政治史というのは、国家や国民の歴史という「上からの歴史」が中心でした。高校の世界史の教科書に登場してくるような歴史上のイベントというのは基本的には国同士の戦いであったり、エリートが優れた制度や法律を作ったりしたことを説明するのが中心です。しかしながら、歴史は単純に偉人やエリートで片づけられるほど単純なものではありません。また、そのような人々も何らかの社会的、文化的文脈の中で生きていたと言えるわけです。そこで、男性性という考え方が有用でした。つまり、法律や制度、戦争や植民地政策など、偉人やエリートの政策決定や言動には男性性という規範が影響していたと考えられるわけです。具体的には、政治家が人気取りのために「強い」男性性を演じることは戦争行為の正当化に一役買ったと言えますし、既婚男性が買春を行うことは、家庭における立派な男性像からの逸脱を意味しており、法律の改廃制定に影響を与えていたりします。

 男性性が政治史研究において重要視されるようになったのはここ30年程の話ですが、その背景には言わずもがなジェンダー史、女性史の発展があったことも忘れてはなりません。歴史における男性の相対化という考え方からジェンダー史という考え方が広く取り入れられるようになってくると、前述のように既存の男性史にも見直しが必要になってきたという文脈があるわけです。

 以上が大まかな男性性と歴史研究に関する説明でしたが、私が研究を始めた頃、非常に参考にしたのが、イギリスの歴史研究者のJ.Toshの著作(A Man’s Place(1999)/Manliness and Masculinities in Nineteenth-century Britain(2005))でした。後の卒論には男性性という概念を実際の事件・出来事に適用しながら叙述を展開していきましたが、理論的な部分で依拠したのがToshの作品で、今でもこれらの本はある意味私の人生の財産のひとつではないかと思っております。

A Man's Place: Masculinity and the Middle-Class Home in Victorian England

A Man's Place: Masculinity and the Middle-Class Home in Victorian England