いくりんのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

性別役割分業観(separate spheres)の簡単な再考  

 

男女関係は、生物がオスとメスという二項に分類されているということから来る不可思議な関係であり不可避的な問題である。と言うといささか問題があるかもしれない。性自認については近年LGBTQに関する理解が広まり、男と女を単純に二項対立で語ること自体が誤ったものであるというコンセンサスが取れつつある。したがって、異性愛をスタンダードとする言説は無批判に受け入れられるものではなく、一定の注意を払いながら説明していく必要がある。

 

 男女関係は生物学的な男と女の間の性的な肉体関係だけを指すものではなく、社会的に蔓延した性別役割分業観に則った関係というわけでもないというのが私の理解だ。男女関係はもはやこれまでに規定されたフォーマットに従って定義できるような関係ではなくなっている。

従来の考え方ならば、その人が生を受けたということは男と女の二つの性に分かれ、男は男らしく、女は女らしく生きていく躾や教育を受けさせられる。しかしながら、この男らしくとか女らしくといった言葉に含まれる社会的・文化的圧力は今日では問題視されており、性別以前に個人としてどう生きていくのかが尊重される社会にならなければならないという意見がある。

ただし、気を付けなければならないのは、個人はジェンダーと切り離されて存在しているわけではないし、ジェンダーアイデンティティと個人の思考は様々に関係しあっているという点だ。例えば、家庭における両親や兄弟姉妹の関係性や教育方法、学校で付き合う人間の趣向、先生の生徒に対する指導の際に見えてくる社会思想や世界の見方。私たちは、意識的あるいは無意識的に、ジェンダー的な価値観に曝されながら生きており、個人の生き方はそのような環境に大いに影響される。つまり、人々が様々な環境下で生活していく中で構築されるジェンダー観は本来は多種多様である。

したがって、女性が就職して自立して好きな仕事をし、社会的に認められたいと思う気持ちがあったとしてもおかしいことはないが、仕事をせずに男性の稼ぎに依存し「主婦」として生きていくライフスタイルも何らおかしなことではない。そして、男性に愛されたいと願うことも、女性が性の快楽に主体的に関わりたいと思うことも、女性が子育てや家事を自らが進んでやりたいと思うことも、夫婦が協力しあいながら家族生活を進めていくことも、認められてしかるべきである。

 

 男女平等という考え方に蔓延している欺瞞は、男女はそれぞれ全く別の存在であるために、それぞれの長所を尊重し、短所を補いながら公私両面での生活を営むことが望ましいという点にある。これはある意味正しいし、ある意味では間違っている。なぜなら、この議論は男女が異質であることを前提としているが、男性・女性それぞれの多様性を考慮していないからである。男性と女性が対等あるいは平等であるから双方を尊重しようという議論の落とし穴は、それぞれの役割を尊重しようとして逆説的に性別役割分業を固定化してしまう可能性があるということだ。

男女の生物学的性差を無批判に社会的・文化的性差として持ち出している例は枚挙にいとまがない。女性が繊細で手先が器用だから家事や育児に向いているとか、男性が腕力があるから力仕事に向いているという考え方などである。それはただ単に統計的にその偏りが見られるというだけである。そのことを生物としての男女の本質として捉えることは非常に危険である。男性だから、女性だからという二項対立的に関係性を捉えるのではなく、男性の中にも、女性の中にもさまざまな多様性が内包されており、個人が“自由”に社会的役割を選択する余地があるということが重要である。

 

3-2は1だけど3-1は2だ。だからどうというわけではない。ただ、この数式に込められた意味合いは気になる

こんにちは。お久しぶりです。ついに私もゴールデンウィークに突入しました。コロナの影響でなかなか外に出られないので、窮屈な感じはありますが。最近は基本的に在宅勤務体制で会社には行かないはずが、社内でしかできない仕事が立て込んだため、想像以上に残業することになりました。色々なストレスもありますが、それは置いておいて、今回、ある楽曲について取り上げようと思います。その曲は、HKT48の13thシングル「3-2」です。2020年4月22日に発売されたシングルでYouTubeにミュージックビデオが配信されているので、まだ聴いたことが無い方は是非聴いてみてください。

 


【MV full】「3−2」MV / HKT48[公式]

 

さて、タイトルだけだと何のことやらわからない「3-2」。曲を聴けばわかりますが、どうやら僕と君とあいつの3人の話のようです。僕が好きな君はあいつと付き合っていて、あいつと僕は親友という、古典的な性愛の三角形を描いた作品です。あいつが君と二人で勝手に懇ろに付き合っているのではなくて、僕とあいつは親友ですから、3人で会って喋ってはしゃいだりするようです。僕からしたら、いたたまれない気持ちになりそうですね。

 

この曲には「3-2」や「3÷2」など、いくつかの数式が出てきます。この数式は単なる引き算や割り算ではなくてきちんと意味があります。それを読み解いていきましょう。

1番のサビで、「3-2なら孤独が残る」という歌詞が出てきます。3-2の計算結果は1ですが、それぞれの意味合いは何でしょうか?

恐らくこの数字はこの3人に関わる人数であることが予想されます。三角関係の歌であることがわかるので、まず、3は問題なく「君とあいつとなぜか僕」と言うことができるでしょう。続いて2は文脈的に、付き合っている二人と考えるのが自然なので「君とあいつ」でしょう。そして残された1は「僕」ということになります。これは2番で「そしてさよならと帰るのは1人」という歌詞が出てくることからもわかります。3-2をした結果、僕は取り残されてしまったのでしょう。それは「君のせいでも、あいつのせいでも、誰のせいでもない」から誰かを恨んで攻撃したり、友情を壊したりするような真似はできないのです。

ちなみに、「2-2には絶対になれない」という表現もなかなか難解です。通常の文脈で言えば、僕と君が付き合うことはできないという意味になりそうですが、それだと2-2=0を説明しにくくなります。したがって、僕と君が付き合うという形を数式に反映するにはどうすれば良いかを考えました。そこで思ったのは、従来の2は「君とあいつ」ですから、それは残し、もうひとつの2を「君と僕」の二人と考えます。そのような状況(ある意味、「君」の二股)が同時に成立することは僕にとってはあってはならないことなのです。それを良しとする人間もいるかもしれませんが、この主人公は友情を崩壊させ、君も幸せにできないような選択は避けたいのです。

そして続く、2番の歌詞は印象的です。

 

近すぎて遠すぎる君さ

親友のことは裏切れない

一緒にいると切なくなるんだ

愛は正直だ

 

そしてさよならと帰るのは1人

君とあいつは いつも残って Ah

胸の(痛み)気づいて(いない)

だから上手く行く

 

 

この歌詞からは、僕が君への思いを伝えず、親友のことを裏切れず孤独で1人帰るからこそ、二人は上手く行くんだという主人公の悲痛なプライドが表現されています。しかし、そのような利他精神を働かせたところで、自分の君に対する本当の気持ちに嘘を付くこともできず、その狭間で切なさや胸の痛みがこみ上げてきます。秋元さんはここで「愛は正直だ」という表現を用いています。ここで「恋」ではなく「愛」という表現を用いているのが味噌です。1番の最初に「恋は独り言」という表現が出てきますが、この対比が意味するのは、「恋」が君に対する一方的な気持ちであるのに対して、「愛」は君に対する恋心はもちろん、親友(や君)に対する思いやりの気持ち(友情)を含んだ複雑な感情なのでしょう。それはある意味、男のしょうもないプライドや強がりのようなものなのかもしれませんが、そのような美学は男性としては理解できるものだと思います。

2番サビで「3÷2」という表現が出てきますが、ここはそこまでの深い意図は無いと私は思います。おそらく、「僕だけ余る」という表現に適合的なのは割り算だからでしょう(ワンペアと1人余るニュアンス)。実質的には「3-2」と大きく意味が変わるわけではありません。ただし、3÷2の計算結果が1.5なので、3-2=1という計算結果からの変化という観点は考えておかなければならないかもしれません(計算結果が3-2=1、3÷2=1.5、3-1=2と段々と増えていくごとに、決断の意思が固まっていっているのかもしれません)。

 

さて、大サビで物語が展開してifが語られます。もし僕が君に告白したらどうなるのだろうという仮定です。比較的ストレートに予想が述べられます。親友は切れて友情は崩壊してしまい、同時に君を困らせたくないのに困らせてしまう。今まで示唆されてきた内容が明確に表現されていると見ることができます。

僕は3人の関係性、友情をぶち壊しにしてしまうようなことはしたくなかったけれども、君を好きな感情は抑えきれないし、アンビバレントな感情を抱き続けることに耐えられません。それが、曲の最後に「3-1なら割り切れるだろう」という表現に暗示されます。3-2で1人孤独に残されるのであれば、3-1つまり、「君とあいつと僕」から「僕」が自ら立ち去ることを決意します。今のまま3人の関係性の中で孤独を感じながら生きるのではなく、親友を裏切ることなく、友情を捨てるのです。果たしてそれは親友を裏切っていないと言えるのでしょうか?二人とともにその場にいることが辛くて仕方がないという気持ちは非常によくわかります。僕が自分の意思をもって立ち去ることで二人が幸せならそれでいいという割り切りがあったのかもしれません。ただ、自らの退場によって二人が幸せであれば良いという優しさは見方によってはかっこよいのかもしれませんが、本人にとって本当に納得のいく決断だったのでしょうか。その点については聞き手の想像力で補うことになります。

以上、「3-2」の世界の長ったらしい解釈でした。歌詞の世界はもとより、杉山勝彦さんの作曲がまた素晴らしいものがあります。特に、彼の曲の場合はリズムを意識して聴くとより楽しめるのではないかと思います。

 

終わり

守屋茜のこれから

こんにちは。COVID-19の影響はますます拡大しているようで、少しばかり鬱屈した日々を過ごしております。まだ、持ちこたえている方なのかもしれませんが、予断を許さない状況ですね。東京は特にそういうムードが強いような気がします。

 先日、BUBKA5月号を購入しました。表紙は欅坂46守屋茜さん(以下、「あかねん」と呼びます)。私は、あかねんのことはとりわけ好きだと言ってきたわけでもないのですが、欅坂46のメッセージアプリが始まったときからずっと取り続けているメンバーの一人で、陰ながらずっと応援してきたメンバーです。単純に綺麗だから好きというのももちろんあるのですが、すごく人間らしくて好きなんですよね。

 彼女は「軍曹」と呼ばれていたような時期もあり、“オラオラ系”で怖いイメージを持っている人もいるかもしれません。それはそれでその人の受ける印象なので否定はしませんが、個人的には、結構彼女はビビりなところがあると思っていて、そこが可愛らしいのです。大っぴらに自分の弱みを出したりはしないけれども、自分で誰かのことを弄ったり面白おかしい話を自由に発言したりすることはあまり得意ではない。それは、バラエティ番組などではネタの範疇であれば面白さに繋がるので本来ならばやっていくべきことなのでしょうが、欅坂46というグループの一員として、その色からは外れることのない、ある種内向的な性格をしていると思います。

 欅坂46というブランドイメージは良い方向に働くこともあればそうではないときもあります。クールでカッコよく楽曲の世界観を大切にするスタンスのパフォーマンスは、多くの人の胸を打つものがあったと思うし、平手友梨奈さんを中心に欅坂46は他のアイドルグループとは全然違う良さがありました。しかし、そのイメージカラーに引っ張られて、バラエティ番組では特にどこかしら内気で暗く、盛り上がりに欠ける印象を抱く人も多かったと思います。

 欅坂46の方向性が固まっていくにつれて、“どう見られているか”が先行してしまい、“どう見せたいか”という発想が固定化していったようなイメージがありました。それはファンが求めているものだからという理由で正当化されていきます。それを求めている人は多いですし、私も欅坂46のライブの独特の世界観をまた味わいたいと思っているのですが、それ“だけ”で良いかと言われると物足りなさを感じなくもありません。彼女たちの楽曲に込められた「思い」を大人や社会や周りの人間や自分自身に対して「ぶつける」行為が実は彼女たちはあまり得意ではない。あれだけ曲中で強い意志で叫んでいるのに、優しくて思いやりに溢れていて、思ったことも胸にため込んでしまう(そうではなく陰湿な性格だと思っている人もいるでしょうが、それは見え方の問題であって、実際は同じことを指しているような気がします)。そうしたパラドックスが、“情緒不安定”なグループの体制を象徴しているのかもしれません。

 しかしながら、あかねんはキャプテンの菅井友香さん(以下、「ゆっかー」と呼びます)とともに、グループを盛り上げようと奮闘しているように見えます。これはここ数ヶ月の話だけではありません。二人が舞台ザンビでともに外に出て活動したことによる関係性の強化だけでなく、欅坂46としての魅力をどんどん伝えていこうという当事者意識が高まったことを私は感じていました(印象論でしか語れないのは、私の力不足です)。

思っているだけじゃなくて実際に行動に移せる人が必要

この言葉は非常に印象的です。実際に行動に移すというのは怖いものです。他人にどう思われるかわからないし、嫌われるかもしれない。わからないことだらけで一歩を踏み出しづらいというのもあります。ただ、思っているだけは何も考えていないのと一緒だと一蹴されてもおかしくないのです。アイドルの文脈で言うなら、内気で楽しくなさそうでギスギスしているような印象は、ファンや視聴者が受け取る身勝手な印象ですが(私はそんな印象はあまり持たずバラエティなどはゲラゲラ笑ってみていますが笑)、そうした印象を彼女たちが変えていく動きを見せなければ固定化された“事実”のように捉えられても文句は言えないという厳しい見方もできます。現代の大衆は事実がどうなっているかよりも、自分の信じたい見方を事実として捉える傾向にあるので、知らないうちに「本人も知らない僕が出来上がる」なんてこともよくあります。少し面倒なファンは放っておけば良いという考え方もありますが、結局、そのイメージが翳を落とし続けているのではないかとここ数ヶ月の様々な出来事を見ていて実感していました。だからこそ、受け身で判断されるよりも、自らが発信していくスタンスというのが欅坂46には特に重要だろうと思います。自分たちが描く欅坂46の未来とはどのようなもので、メンバーとはどういう関係性で接していきたいか(どう見せたいか)とか、ファンとはどのような交流をしていきたいか、といった当たり前のようで難しいビジョンを示してくれるだけでファンは安心します。このような雑誌で本人が思っていることを語る機会は貴重ですし、あかねんのファンだけでなく多くの欅坂46のファンが知るべき内容だろうと感じています。失敗して悔しくて泣きたくなって、苦しい時にため込んでしまってストレスを吐き出せない不器用なあかねんが少しでも報われることを祈念しています。ゆっかーとともに、2期生の魅力を引き出しながら引っ張っていけるような活躍が今後も見られることを期待しています。

 

以上

コロナショックにより顕在化しつつある・・・

はじめに

新型コロナウイルスの影響で街中から人が消えた。様々なイベント自粛要請や公立小中高の臨時休校など、方法論の問題や意思決定のプロセスの問題はあるにしろ感染症予防や拡散防止のためには必要な対応だったと思うし、国民、市民の健康が脅かされる危機の中でやむを得ない判断だっただろう。とはいえ、気になるのは、経済活動への影響だ。商品販売を業とする企業であれば中国に製造や加工のための工場がある場合や中国企業で製造、加工された商品を自社に仕入れる場合が少なくない。生産工場の操業再開は進んでいるものと見られるが、納期の遅れが商売に少なからず影響を及ぼしている。新型コロナウイルスが落ち着き、経済が動き出したときに、生産が需要に追いつくのかという懸念もある。

 

 今回、私の専門領域は与信リスクに関してなのでそれについて考えてみたい。一番の懸念は倒産だ。「コロナショック」で倒産する企業が増えるのかについてだが、大きくは増えないというのが現在の見立てだ。インバウンド需要に依存している企業にとって今回の影響は特に大きく、すでに資金繰りに窮して倒産する企業が見受けられる(飲食業などでは、インバウンド需要だけでなく国内の消費者の需要も大きく減退しているようだ)。とはいえ多くのインバウンド企業にとって、今回の危機は一過性のもので外国人観光客はいずれ戻って来るから売上は回復するという見立ては一理ある。楽観的ではあるが、現状を底だと考えるなら当然だ。また、「金融円滑化法」の実質的効力が復活することも大きい。新型コロナウイルスの感染拡大による中小企業の経営悪化を食い止めるため、金融庁主導で金融機関に融資先への返済猶予などを促す考えが示されている。企業は手元にキャッシュを有している限り倒産しないので、金融機関から支援を打ち切られることが無ければ倒産はしない。リーマンショック後の不況も、この法律の実行力が継続した結果、日本企業の倒産(ここでは、破産、特別清算民事再生、会社更生のいわゆる法的倒産だけでなく、手形の不渡りやその他の私的整理を含む。)は毎年1万件に満たないほど少なく抑えることができている。その分、地方銀行を中心として金融機関は苦しい状況を強いられているという面はあるが。

 

動態観察の重要性

 大事なことは、倒産が大きく増えないからといって、取引先の信用状態が変化しないというわけではないということだ。倒産が増えないから、今まで通りの商売をしていても問題無いのかというとそうではない。安定した営業基盤を有し、資金面に余裕がある優良先との間の取引であればとりわけ問題は無いが、得意先の販売ルートや顧客基盤の必要性、担当者や代表者との人間関係、過去からの長年の取引実績など、様々な要因が絡み合い、信用状態が芳しくない企業と取引をせざるを得ない場合は往々にしてある。そのような企業との取引を行うには、決算書の入手や信用調査会社(帝国データバンク東京商工リサーチ)の調査報告書の活用に加えて、営業部門による相手方企業の動態観察が必要になって来る。企業の状態は決算書に表れるとは言うものの、決算書はあくまで間接的な情報として分析できるものであって、与信判断の必要条件であっても十分条件ではない。

したがって、得意先の信用状態の分析をより厳密に行うためには、営業部門による動態観察が重要である。具体的に動態観察が何なのかというのは定義できるものではないが、相手方の代表者の人柄や能力、健康状態などを把握し、従業員の増減や、幹部の退職等が無いかのチェック、あるいは商売の状況や在庫の状況、自社への支払状況など、目に見える状況から直接聞くことができた情報まで様々な情報を入手することが必要になってくる。営業部門は目先の売上と利益を稼ぐことが最も重要な使命だと考えがちなので、得意先の信用力は二の次になることが多い。しかし、倒産が企業経営に及ぼすダメージについては以前述べた通りである(https://ikurin0625.hatenablog.com/entry/2020/01/12/094247)。特別なチェックポイントを意識しなくても相手先の代表者や担当者との会話の中で感じられたものや、業界内での噂のようなものでも一定の意味がある。

 企業の信用状態は刻一刻と変化していくので、営業部と相手方企業との接触頻度と動態観察が物を言う場合が多い。そこで何らかの異変を感じ取ることができれば、与信の圧縮や取引の停止を早々に判断することができ、万が一の場合の被害を最小限に抑えることができるからである。

 

保険とモラルハザードについて

 ここでもう1点考えておくべき喫緊の問題がある。それは、今回の経済情勢の悪化で取引信用保険や保証ファクタリングといった債権保全策が十全に機能しなくなる可能性があるということだ。商社のような企業は、もし得意先が倒産してしまった場合に何も債権保全策を講じていないという場合は現在少なくなった。昔であれば、信用不安先については、債権保全のために何らかの担保を取得することがあった。不動産の(根)抵当権の設定は金融機関でない一企業が行うのは難しい場合が多いが、有事の際に得意先の第三者に対する債権を譲渡してもらう契約や、動産(例えば在庫)を譲渡してもらってそれを換価して債権に充当するといった契約を結んだ上で取引を行う、あるいは最も確実な債権保全策として、得意先から保証金をもらい、その範囲内で商売を行うというものもある。

とはいえ、担保権の実行に関わる手続きは専門的な知識が必要で、相手先や弁護士や裁判所とのやり取りが煩雑になることも多い。そこで、近年では取引信用保険という便利な商品が出てきた。これは、得意先(=債務者)に対して有する債権が焦げ付いたときに、保険会社に一定限度額の範囲内で保証してもらえるというものだ。自社としては得意先に保険を付保したことに知られずに(上記のような面倒な契約の手続きを踏むことなく)、債権保全ができるので非常に使い勝手が良いのだ。しかも、得意先すべてに一定額の範囲内であれば限度を付けてもらえるという制度(「裁量与信制度」という)があるので、小規模な商売をしている企業に対していちいち「付保したい」という通知を保険会社にしなくても良い。その使いやすさと費用負担の軽さから現在では取引信用保険を利用している企業は増えていると思われる。ところが、ここで思わぬ落とし穴がある。いわゆる「モラルハザード」の問題だ。与信管理上、取引信用保険は非常に便利で経営戦略として有効利用すれば売上の向上にもつながる。しかし、保険会社に依存して販売活動をしていると、いざ急に下駄を預けられたときに多額の損失を被ってしまうという点は忘れてはいけない。

保険会社の立場で考えると分かりやすいかもしれない。保険を掛けた得意先企業が倒産して貸し倒れが生じると、自社は保険会社に求償するが、保険会社はその費用を支払わなければならない。自社からすれば、「それが仕事なんだから当然だろ」という気持ちになるが、保険会社がそのような損失を被りたいはずがない。したがって、保険会社も対象得意先の審査を行う。審査の結果、問題の無い企業であれば付保されるが、信用不安先については付保を取消される場合もある。付保を取消されてしまうとどうだろう?貸し倒れが生じても保険でカバーできるから販売に注力していればいいと思っていたが、いざ保険が取り消されて倒産の被害に遭うと、その債権額全額が損失となる。倒産に遭った場合の影響については以前述べたが、数百万円の貸し倒れであっても、その影響は小さいとは言えない。

 

 保険は後受けであって、それを前に出して安全だと考えてはいけない。「コロナショック」のような事態で経済的にダメージが大きいと、以前から信用力に不安のある先については保険会社も保守的な対応を取らざるを得ない。保険会社が自社にとって都合の悪い対応を取るならば、自社の与信管理体制が日頃から十分に構築できているか考える/構築する方が余程重要だ。そのために必要となって来るのが、与信管理担当部署と営業部門の有機的な連携と経営陣の理解になる。この点についても、おいおい考えていけたらと思う。

 

おわりに

2019年の9月以降、倒産する企業が前年に比べて増加傾向にあり、新型コロナウイルスの影響がその傾向に拍車を掛けている。従前からの販売不振と消費税の増税に加えて、コロナショックが重なることで、以前から資金繰りに不安を抱えていた企業がバタバタと倒れていっている。その数も負債額もとりわけ大きいとは言えないのでマクロ的に見れば大したことは無いのだろうが、自社が倒産の被害に遭うか遭わないかというミクロの話が当事者にとっては問題なのだ。これから先、インバウンド需要に依存していた新興の企業や、財務内容が元々悪い企業とは特に注意しながら取引を行う(あるいは撤退する)必要がある。マイナスの影響を考えてばかりで鬱屈になるが、想定される事案は先に手を打っておかなければ後で痛い目に遭う。自戒を込めて…。

 

以上

DASADAのダサさが良いじゃない

こんにちは。3月になり、春の気持ち良い空気が感じられる日もありますが、新型コロナウイルスの影響もあって、街は少し寂しい雰囲気があります。ビジネスパーソンの飲食店での出入りさえ以前よりも少なくなっていることを実感します。混雑せずに食事がすぐできるので良いと言えば良いのですが…。

 

アイドルオタクとして、ライブや握手会イベントが中止・延期になると、日々の楽しみがなくなってストレス発散もできなくなりますね。最近はとりわけオタクとしての活動をしていませんが(何だかんだ2019年は日向坂の全握やライブビューイングやひなくり2019など、現場に行きましたが、特別な熱量があるわけでもなく1年以上経っています。)、日向坂46の4thシングルを購入し、ソンナコトナイヨの物語のお話をしました(https://ikurin0625.hatenablog.com/entry/2020/02/18/214454 )。あの創作物語は力作でも何でもないですが、つい秋元さんの題材から連想物語を創作してしまいます笑 全国ツアーも大阪公演4/11分が当選しているので楽しみです。コロナで延期になる可能性が高いですが。

 

日々の楽しみといえば日向坂で会いましょうとドラマDASADAくらいでしょうか(私は欅坂46のオタクではあるのですが、日々の楽しみとは感覚が違います。守屋茜さんから来るメッセージが癒しになることはありますが)。ちょくちょく雑誌が出ているので、推しメンがいたり気になる雑誌があったりすれば購入しますが、日々の仕事や資格取得に向けた勉強であまり読む余裕がありません。そこまでの優先順位ではないということですので、いつまで中途半端にアイドルオタクをしているんだろうと思います。アイドル雑誌など水を飲むような感覚で読めると言えば読めるのですが、文字情報を普段から摂取しすぎていて、なかなか読む気力が湧いてこないときもあります。だからこそ、動画コンテンツが気楽に見ることができて良いのですよね。何も考えずに、ぼーっと楽しく見ていると、精神的な重荷から解放されて幸せな気分になります。もちろん、また立ち向かわなければならないという状況が近づくと憂鬱な気分になるのですが笑

 

DASADAに関していうと、細かい分析をすることができるのでしょうけれど、それはちゃんと日頃からメンバーを見ていて、ドラマも何度もチェックしている人がやるべきでしょう。そこまでの熱量で見ることができないというのが現状です。DASADAというドラマは、主人公の佐田ゆりあ(小坂菜緒)という向こう見ずで空気が読めず自分が可愛いことだけは信じて疑わないポジティブガールと篠原沙織(渡邉美穂)という本物を夢見て妥協を許さない意固地で不器用な女の子の間の、青春の成長物語と私は捉えています。もちろん他のメンバーにスポットが当たる瞬間もあるし、それが物語の推進力になることもあるのですが、基本的にはこの二人の物語です。だから、この二人の物語という軸が崩れなければドラマはブレずに安定して進んでいくと思います。アイドルドラマなので色々なメンバーがフィーチャーされる瞬間があった方が平和で良いと思うのですが、全員に同じようにチャンスが与えられて、出演場面があるというのは学園ドラマでクラスものでないと難しいですね。

Hulu先行配信で第9話までが放映されて、もう次で終わりなのかと思うと少し寂しい気がします。メンバーの役柄がメンバー個人の人柄と一致しているとは限りませんが、特別大根芝居だなと思うこともないですし、普段とのギャップが感じられて面白いドラマだなと思います。やはり第6話のゆりあとしゃおりさんの雨の中のシーンはすごくよかったですよね。あれだけでもこのドラマを観る価値があったと思います。小坂菜緒ちゃんが演じるゆりあちゃんのおとぼけ感というか、何も考えてない感に周りが多少苛立ちを覚える場面は割と描かれていますが、このシーンの彼女の心から真剣にしゃおりさんに向き合っている言葉と表情に心打たれました。

それに、私は渡邉美穂ちゃんが特別好きというわけではないですが、このドラマもRe:Mindのときの彼女も好きです。彼女の真面目で真剣に何事にも挑む姿勢が役柄にも反映されている気がして、個人的にとても共感できるキャラクターです。簡単に夢は叶わないし、挫折も繰り返します。自分の考えが甘く他人に馬鹿にされる瞬間もあるかもしれません。それでも、しゃおりさんの本物になりたいという純粋な思いがゆりあの家庭的事情と甘い商売意識に結びついて周りを突き動かしていく様は、決して現実離れしているわけでもないという印象を抱きます。まあ、あそこまで順調に事が進むということはなかなかないとは思いますが笑

 

今度の最終回が中途半端な形で終わったとしても、私としてはある程度すでに楽しめたので良かったかなと思っています。

本当は分かりやすくドラマのキャプションなど載せたいですが、著作権侵害で訴えられると困りますのでやめておきます笑

 

終わり

背中をさすりながら気持ち良さげに笑う。

背中をさすりながら気持ち良さげに笑う。

 

前を向くのなら、希望のある未来を想像したい。優しく背中をさすりながら、前を向く人の耳を上から眺める。眺めるだけで、その奥に何か異次元の空間が広がっていて、不思議な世界を共に体験をすることはない。首のあたりがどうしても疲れると思って、腕を伸ばしてみることがあるのだが、必要だと思えば首の重さがのしかかり、必要ではないと思えば左腕が軽く手持ち無沙汰に遊ぶ。だから左手で背中をさすりながら、前を向く人の隠れた横顔を眺めようとするのだが、その横顔は墨塗りの教科書のように顔の上から墨で塗られ真っ黒に見えた。それにあまりにも吃驚してしまったから、そこにあるのが現実に存在する人なのかと疑ってしまった。

 

もちろん存在すると感じられる。呼吸をしている。すくすくと寝息を立てながら優しく慈愛に満ちた表情で、惜しげもなく肌をさらしながら、身を預けて眠っている。口を大きく開けることも、鼻を大きく膨らませることも、目を大きく見開くこともなく、優しいぬくもりに包まれているように見えるのに、きわめて冷静な眠りがある。特別な官能を讃えるわけでもなく、日常の自然な欲求がたまたまその空間において満たされているだけだ。傍から見れば、気心の知れた男女の私的な性愛の一面を切り取ったにすぎないだろう。しかし、これは私的な性愛ではなく、単なる妄想に思える。真っ黒に塗られた面(おもて)こそ真実なのか、優しく衝動的に惹かれるその面こそが真実なのか、わからない。

 

顔が見たいわけではなく、自分が何なのかを確かめたいという思いで、背中をさする。嫌がることもなく、気持ち良さそうに笑いながら眠っている。ただその顔は黒く塗られているような気がしてよくわからないからそのように見えるだけだ。

 

前を向いて歩いていきたいという気持ちを感じながら、前は向こうであって、こちらではなかった。互いの結節点で交わり、向き合い、対立し、離れ、向こうへと向かう。向こうへと向かって走り出した人を追いかけ捕まえようとする営みが幸せなことなのだと信じて疑わない時もあった。事実、それは幸せになり得る行為なのだろう。何か理想的な熱烈で感動的なフィナーレを迎えんがための、静けさと甘美さに大胆なスパイスを効かせた緩徐楽章のような幸せは確かにある。しかしそうではない。

 

ただ単に状況に埋没しているだけで、その埋没している自分が引き攣るくらい好きで、求めているわけでも、求められているわけでもない。

 

ぱりんと音を立てて何かが割れる音がした。見たくないものが見えてしまったときに動揺して皿を床に落としてしまったときのような衝撃。しかし、見たくないものかどうかは実際に見てみないことにはわからなかった。理想と現実のギャップに酷く落胆することがあっても、理想に耽ることに快感を覚えることもある。好奇心が心を突き動かし、思いもよらない妄想に自らを動かすこともある。いつでも気まぐれに、心象風景が移り変わり、移りゆく状況の儚さに自らの脆さを投影する。

 

理想とは何だったのか。

深く満ち足りた安定した心地よい生活のようなものか。

笑顔が絶えず誰かと寄り添いながら困難を生き抜く未来のようなものか。

理想の未来を投影することで、強い快感と確固たる自信を携えて、数多の困難も乗り越えていけると確信する。理想と現実は大きく違うと理解していても、理想と現実の違いが何なのかがおぼろげにしか実感できていない。

 

その面は優しく衝動的に惹かれる理想的な未来を共に歩いていく面とは違う。真っ黒に塗られた得体のしれない気持ち悪さが募るばかりの面だ。ぱりぱりと音を立ててその面が割れていくのをじっと見ていると、その面が見たことがあるような、あるいは無いような醜い表情を浮かべながらこちらに笑いかけているのがわかった。理想が音を立てて崩れ落ちていく感覚に襲われた。いや、それは現実なのかもしれない。笑いかけているのが他でもない自分自身であることに気づくと、自分自身が投影した理想の未来が痛切に実感できた。まるで本当の理想的な生活と幸せな生き方があって、今この瞬間に、その喜びの体験を噛みしめることができたかのように。そんな歓喜に満ちた現実が存在すればいいだなどと思わない。ただ単に、その状況に埋没しているだけ。

 

私は、背中をさすりながら、気持ち良さげに笑っていた。

愛を伝えたいだとか

愛を伝えたいだとか言っても、伝えたところでどうなるのかという話である。

 

「愛してる」という甘ったるい大人の響きは、どうしてもアイドルにも恋人にも似つかわしくない。なぜなら、愛してるという言葉は本当に愛してるから出てくる言葉ではないからだ。本当に心の底から湧いて出てくる言葉は、「好き」であったり、「嬉しい」であったり、「楽しい」であったり、「ありがとう」であったり、「おめでとう」であったりする。愛してるという言葉はふと出てくる言葉ではない。虚飾であり、カッコつけであり、不安の裏返しでもあったりする。

言い方を変えるなら、大切な人のことを大切であると証明するかのような呪文なのだ。それが、悪いわけではないし、別に間違ったことを言っているわけでもない。純粋に好きな人に対して「愛してる」というのはロマンティックで良いではないか。ただ、その証明が自分自身に対して向けられるものだとするとなかなか心が痛む。

永遠に好きでいられるなんて保証など誰にもできない。ただ、愛してるという言葉を、気持ちを、直接伝えられないもどかしさが愛してるを加速させる。本当に自分が相手を愛してるかどうかなんてどうでもいいときもある。しかし、愛してるという気持ちを伝えられないことは苦しくて苦しくて仕方がないのだ。どうしようもなく、抱きしめたいような衝動に駆られ、病みつきになるようなセックスに明け暮れる。熱烈な性の欲望は、愛の証明が容易にできそうな気がしてしまうからだ。でもそんな証明はできないかもしれないし、できない状態に置かれる。だから、せめて愛してるという言葉を、愛という概念を口にして考えて、どうにか自分の愛を確かめようとする。その営みは切なく無様で情けなくて寂しい。

「愛してる」という言葉の一方通行は、だんだんおセンチな気持ちになるだけだ。私の世界には君しかいないのに、君の世界に私はいないかのような、虚しさがある。しかし、その気持ちに嘘をつきながら生きることもまた同等の、またはそれ以上の虚しさを募らせていくなんてこともあるやもしれませんね。

あいみょんが描いている世界はこれとは少し違いますが、空虚な愛に遭遇したときの気持ちを男性目線で描くのもなかなか面白いなと思います。

 


あいみょん - 愛を伝えたいだとか 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

終わり