いくりんのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

性別役割分業観(separate spheres)の簡単な再考  

 

男女関係は、生物がオスとメスという二項に分類されているということから来る不可思議な関係であり不可避的な問題である。と言うといささか問題があるかもしれない。性自認については近年LGBTQに関する理解が広まり、男と女を単純に二項対立で語ること自体が誤ったものであるというコンセンサスが取れつつある。したがって、異性愛をスタンダードとする言説は無批判に受け入れられるものではなく、一定の注意を払いながら説明していく必要がある。

 

 男女関係は生物学的な男と女の間の性的な肉体関係だけを指すものではなく、社会的に蔓延した性別役割分業観に則った関係というわけでもないというのが私の理解だ。男女関係はもはやこれまでに規定されたフォーマットに従って定義できるような関係ではなくなっている。

従来の考え方ならば、その人が生を受けたということは男と女の二つの性に分かれ、男は男らしく、女は女らしく生きていく躾や教育を受けさせられる。しかしながら、この男らしくとか女らしくといった言葉に含まれる社会的・文化的圧力は今日では問題視されており、性別以前に個人としてどう生きていくのかが尊重される社会にならなければならないという意見がある。

ただし、気を付けなければならないのは、個人はジェンダーと切り離されて存在しているわけではないし、ジェンダーアイデンティティと個人の思考は様々に関係しあっているという点だ。例えば、家庭における両親や兄弟姉妹の関係性や教育方法、学校で付き合う人間の趣向、先生の生徒に対する指導の際に見えてくる社会思想や世界の見方。私たちは、意識的あるいは無意識的に、ジェンダー的な価値観に曝されながら生きており、個人の生き方はそのような環境に大いに影響される。つまり、人々が様々な環境下で生活していく中で構築されるジェンダー観は本来は多種多様である。

したがって、女性が就職して自立して好きな仕事をし、社会的に認められたいと思う気持ちがあったとしてもおかしいことはないが、仕事をせずに男性の稼ぎに依存し「主婦」として生きていくライフスタイルも何らおかしなことではない。そして、男性に愛されたいと願うことも、女性が性の快楽に主体的に関わりたいと思うことも、女性が子育てや家事を自らが進んでやりたいと思うことも、夫婦が協力しあいながら家族生活を進めていくことも、認められてしかるべきである。

 

 男女平等という考え方に蔓延している欺瞞は、男女はそれぞれ全く別の存在であるために、それぞれの長所を尊重し、短所を補いながら公私両面での生活を営むことが望ましいという点にある。これはある意味正しいし、ある意味では間違っている。なぜなら、この議論は男女が異質であることを前提としているが、男性・女性それぞれの多様性を考慮していないからである。男性と女性が対等あるいは平等であるから双方を尊重しようという議論の落とし穴は、それぞれの役割を尊重しようとして逆説的に性別役割分業を固定化してしまう可能性があるということだ。

男女の生物学的性差を無批判に社会的・文化的性差として持ち出している例は枚挙にいとまがない。女性が繊細で手先が器用だから家事や育児に向いているとか、男性が腕力があるから力仕事に向いているという考え方などである。それはただ単に統計的にその偏りが見られるというだけである。そのことを生物としての男女の本質として捉えることは非常に危険である。男性だから、女性だからという二項対立的に関係性を捉えるのではなく、男性の中にも、女性の中にもさまざまな多様性が内包されており、個人が“自由”に社会的役割を選択する余地があるということが重要である。