いくりんのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

背中をさすりながら気持ち良さげに笑う。

背中をさすりながら気持ち良さげに笑う。

 

前を向くのなら、希望のある未来を想像したい。優しく背中をさすりながら、前を向く人の耳を上から眺める。眺めるだけで、その奥に何か異次元の空間が広がっていて、不思議な世界を共に体験をすることはない。首のあたりがどうしても疲れると思って、腕を伸ばしてみることがあるのだが、必要だと思えば首の重さがのしかかり、必要ではないと思えば左腕が軽く手持ち無沙汰に遊ぶ。だから左手で背中をさすりながら、前を向く人の隠れた横顔を眺めようとするのだが、その横顔は墨塗りの教科書のように顔の上から墨で塗られ真っ黒に見えた。それにあまりにも吃驚してしまったから、そこにあるのが現実に存在する人なのかと疑ってしまった。

 

もちろん存在すると感じられる。呼吸をしている。すくすくと寝息を立てながら優しく慈愛に満ちた表情で、惜しげもなく肌をさらしながら、身を預けて眠っている。口を大きく開けることも、鼻を大きく膨らませることも、目を大きく見開くこともなく、優しいぬくもりに包まれているように見えるのに、きわめて冷静な眠りがある。特別な官能を讃えるわけでもなく、日常の自然な欲求がたまたまその空間において満たされているだけだ。傍から見れば、気心の知れた男女の私的な性愛の一面を切り取ったにすぎないだろう。しかし、これは私的な性愛ではなく、単なる妄想に思える。真っ黒に塗られた面(おもて)こそ真実なのか、優しく衝動的に惹かれるその面こそが真実なのか、わからない。

 

顔が見たいわけではなく、自分が何なのかを確かめたいという思いで、背中をさする。嫌がることもなく、気持ち良さそうに笑いながら眠っている。ただその顔は黒く塗られているような気がしてよくわからないからそのように見えるだけだ。

 

前を向いて歩いていきたいという気持ちを感じながら、前は向こうであって、こちらではなかった。互いの結節点で交わり、向き合い、対立し、離れ、向こうへと向かう。向こうへと向かって走り出した人を追いかけ捕まえようとする営みが幸せなことなのだと信じて疑わない時もあった。事実、それは幸せになり得る行為なのだろう。何か理想的な熱烈で感動的なフィナーレを迎えんがための、静けさと甘美さに大胆なスパイスを効かせた緩徐楽章のような幸せは確かにある。しかしそうではない。

 

ただ単に状況に埋没しているだけで、その埋没している自分が引き攣るくらい好きで、求めているわけでも、求められているわけでもない。

 

ぱりんと音を立てて何かが割れる音がした。見たくないものが見えてしまったときに動揺して皿を床に落としてしまったときのような衝撃。しかし、見たくないものかどうかは実際に見てみないことにはわからなかった。理想と現実のギャップに酷く落胆することがあっても、理想に耽ることに快感を覚えることもある。好奇心が心を突き動かし、思いもよらない妄想に自らを動かすこともある。いつでも気まぐれに、心象風景が移り変わり、移りゆく状況の儚さに自らの脆さを投影する。

 

理想とは何だったのか。

深く満ち足りた安定した心地よい生活のようなものか。

笑顔が絶えず誰かと寄り添いながら困難を生き抜く未来のようなものか。

理想の未来を投影することで、強い快感と確固たる自信を携えて、数多の困難も乗り越えていけると確信する。理想と現実は大きく違うと理解していても、理想と現実の違いが何なのかがおぼろげにしか実感できていない。

 

その面は優しく衝動的に惹かれる理想的な未来を共に歩いていく面とは違う。真っ黒に塗られた得体のしれない気持ち悪さが募るばかりの面だ。ぱりぱりと音を立ててその面が割れていくのをじっと見ていると、その面が見たことがあるような、あるいは無いような醜い表情を浮かべながらこちらに笑いかけているのがわかった。理想が音を立てて崩れ落ちていく感覚に襲われた。いや、それは現実なのかもしれない。笑いかけているのが他でもない自分自身であることに気づくと、自分自身が投影した理想の未来が痛切に実感できた。まるで本当の理想的な生活と幸せな生き方があって、今この瞬間に、その喜びの体験を噛みしめることができたかのように。そんな歓喜に満ちた現実が存在すればいいだなどと思わない。ただ単に、その状況に埋没しているだけ。

 

私は、背中をさすりながら、気持ち良さげに笑っていた。