いくりんのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

近代イギリスにおけるジェンダーと人種の話

近代イギリスにおけるジェンダーは女性参政権の議論や選挙権に関わる市民権の視点から浮き彫りになる階級対立とその鎮静化の問題、家庭における男女関係のあり方、「領域分離」論の正当性、ホモ・ソーシャルな領域と帝国、男らしさの文学における表象など様々な方面からの研究がなされてきた。様々な研究があるなかでも今回は、1870年代以降の帝国主義的な思潮のなかでイギリスのジェンダーと人種がどのような関連性を持ったかを検討したい。1870年から1914年は、多くの文化史家の研究によれば帝国主義的で過度の男らしさの要請が称賛された時代である(Francis [2002] p.640)。そこではホモ・ソーシャルな世界が神聖視されていたが、ここではその研究には立ち入らずに女性と植民地の原住民を比較した女性参政権反対論者に注目しながらジェンダーと人種の問題を考えたい。

 イギリスにおける女性参政権運動は20世紀になって大きな高まりを見せるが、それ以前からも見受けられる。それは選挙権が何に基づくかという問題をめぐって様々な議論がなされたことからも分かる。1885年までに3度の選挙法改正が行われ、財産所有者から大半の男性労働者にまで選挙権が拡大されたが、女性には参政権は与えられず、それに応じて女性参政権の熱が高まったとされる。これに対して、当時の保守派のみならずリベラルの側からも女性参政権付与を危険視する声も上がっていた。その論理的根拠は従来の男女の領域分離に反するというもので今日の私たちからすると身勝手な話に思えるが、性別役割分業の考え方が社会に根付いていた当時からすれば比較的自然な反応だと言える。また、従来のスタンスからの逸脱を懸念する人たちの中には、今日でも議論されることのある過度の女嫌い(misogyny)へと向かう者もいた。

 この19世紀の後半以降は一般的に帝国主義の時代とされているが、それは男らしさを身体的力強さ(physical virility)と結びつけることになった。1867年の第2次選挙法改正で多くの都市の男性労働者に選挙権が付与されたことは、労働者階級の男性に一定の市民権を与えることを意味した。イギリスの階級社会において、労働者が野蛮で常軌を逸していて性的にも淫らで乱交に走るといったイメージは、たとえ事実に基づいていないとしても、共有されたマインドとして恐れられていた。したがって、選挙権の付与は、労働者階級の筋肉と力を伴った男らしさを既存の秩序に対する脅威から帝国の防衛に転換していく政府の意図として見ることができる(Clark [1995] p.243)。労働者階級の男性を取り込むことで、帝国主義的な力でもって他者を制すという考え方は男らしさに結びつけられ、女々しい男や力のない男ではなく、身体的力強さをもった男らしさが要請された。

 このような時代背景のなかで、帝国主義的な政府の力を家庭における厳格な家父長主義に結びつけ、女性参政権に反対したのがJ.F.スティーヴンズという人物であった。彼はインドに統一的な法体系を課そうとするなかで、民主主義というより身体的力を通した法則を支持した。そして彼は自身の意志を強化することのできない(と考える)女性とネイティヴを比較して見せた(Clark [1995] p.249)。このように、選挙権を誰にどれだけの範囲で与えるのかという問題を議論する際に、女性と帝国における黒人やネイティヴが比較されることがしばしばあった。

問題は、なぜ選挙権に関して女性と植民地の原住民が結びつけられるかである。そこには、男女差別の問題と人種差別の問題が絡み合っている。男女差別の問題には、イギリス人(ここでは白人)の男性は充分に男らしく、女性を支配しており、選挙権を獲得するに値するという論理に関係している。男女差別的な考え方は女性参政権に反対する人たちの根底にある考え方で、つまり男であること、男らしいということが選挙権の根拠であり、必然的に男に比べて身体的に力のない女であることは選挙権からの排除を意味した。市民権の考え方からすれば、男こそが市民であり、女はその従属者にすぎず市民ではないということだろう。また、人種差別の問題は植民地のネイティヴに選挙権が与えられないことから見て取ることができる。その根拠とされたのは、彼らが性的に十分に差異化されていないということだった。これは大きな偏見であろうが、興味深い点はイギリスの白人女性に参政権が与えられない理由とネイティヴに選挙権が与えられない理由に性的な差異が挙げられていることである。つまり、白人の男女は性的な差異が大きく、それに比べると黒人の男女は性的な差異が小さいのである(Clark [1995] p.250)。これはどういうことであろうか。

 そもそも性的な差異という問題はジェンダーの視点である。男性だから選挙権があり、女性だから選挙権がないという理論に正当性を求めるなら、その根拠を性的な差異(ここでは身体的な力強さを持つか持たないか)に見出すことは、人種差別的な視点とは直接的には結びつかない。しかし、当時の暗黙の了解として、植民地のネイティヴなどは男女問わず野蛮で身体的にも貧弱な人たちだと見なされた。つまり、身体的に力強さを持つかどうかという基準からすれば植民地のネイティヴは男女の区別の必要はなく、また彼らはイギリスの白人女性とその点で共通していた。女性参政権を付与しないという論理的根拠に植民地の原住民を持ち出すことは、身体的な力強さを持たないというネイティヴと白人女性の想定された共通点を指摘することで、女性を野蛮で憎らしく不純な社会的失格者と見なすよう仕向ける狙いがあった。つまりこれはまさしくこの当時の女嫌いを反映していたと言える。

 このような女性参政権をめぐる議論のなかで植民地の原住民が引き合いに出されることがしばしばあったことはすでに述べた。しかしながら、実際に原住民が身体的な力強さを持たないだとかその男女の性的な差異があまりないだといった議論に正当性はあるのであろうか。女性参政権を主張したサフラジェットたちもこうした人種差別的な考え方を白人男性と同じように持っていたとされる(Clark [1995] p.250)。イギリスの帝国主義政策の残酷さは周知の通りであるが、大衆的に浸透していた人種差別的意識の問題は検討されてしかるべきだと思われる。

以上に述べてきたように、男女の関係性と白人黒人の関係性は大いに関連している。男性の女性に対する支配と白人の黒人に対する支配はパラレルだと言えるし、それは社会的強者と弱者の関係と言い換えることができる。そして、このような議論の中での大きな問題点の1つは、白人の男女の関係性は考慮しているにもかかわらず、黒人に関しては男女による差異が考慮されず、単に「黒人」と表される点である。それは強者から見た歴史像であって押し付けがましい歴史であろう。黒人が実際に参政権運動をどのように見ていたのか、またそれは黒人の男女でどのように違うのかといった問題は考慮できていない。その点でこうした女性参政権をめぐる議論は白人中心主義的な見方であり、一面的である。もちろん、史料の問題やイギリスにおける黒人の影響力をどのように実際に捉えるかという問題は生じるが、黒人からの視点が必要ないということは絶対に言えない。

ジェンダーと人種がどのように関わっているかを分析することは、より幅広い文脈のなかで歴史的事象を読み解く上で非常に有用だ。そういった視点で歴史を研究する人がいても良いかなと思う。

 

 

 

参考文献

井川ちとせ「19世紀イギリスの選挙法改正と〈男らしさ〉の定義」中井亜佐子・吉野由利編『ジェンダー表象の政治学―ネーション、階級、植民地』彩流社、2011年。

Clark, Anna, “Gender, Class and the Constitution: Franchise Reform in England, 1832-1928”, in: James Vernon (ed.), Re-reading the Constitution: New narratives in the Political History of England’s Long Nineteenth Century, Cambridge, 1996, pp.230-253.

Francis, Martin, “The Domestication of the Male?: Recent Research on Nineteenth- and Twentieth-Century British Masculinity”, in: The Historical Journal, 45-3, 2002, pp.637-652.

幸せの感情

働き始める前、猛烈な失望感に苛まれていた頃、自分自身を守るために、あまり考えもしなかった心境に至ることがあった。それは、過去に誰かとともに生きる営みを幸せに思えた自分は本当は不幸せで、今絶望的に苦しいと思う自分は間違っていて、自分自身に向きあい冷静に生きている自分は幸せなのではないかということだった。

過去に自分は自分自身のアイデンティティを誰かに預けてしまいすぎていたのではないかという反省があった。誰かとともに、好きなものとともに生きて行くことは素晴らしいという風に思っていた。誰かと支えあいながらともに生きて行くことは良いことだと思っていた。だが、自分は誰のものでもなく、誰かと関わりあうなかで自分の価値観が薄まってしまっていることに気付いた。

誰かに合わせて、中途半端に生きて行くことの心地よさと気味悪さ。今の自分にできることは、失われてしまった自分の存在意義、レゾンデートルを見つけることだと思っていた。幸福とは自分自身の存在を認め、愛し、尊重して生きている状態なのだと。

 

それは大体正しかった。少なくとも、自分のために自分が満たされるために生きることは悪くない。イギリスの歴史を中心に政治・社会系の好きなことを勉強し、少し嫌なことはあっても好きな仕事をさせてもらっていること。アイドルやピアノ、その他趣味に時間を使えて好きなことに挑戦できること。自分のやることが完ぺきではないにしろ、誰かに褒められたり、信頼されていたり必要な人間であると思われていると感じられたりすることは、悪い気持ちはしない。

ただ、そのような状態は幸せなのかと思うと、そういう時もあればそうではない時もあるなと感じる。要するに、ざっくりと振り返って自分らしく生きられていたからあの時は幸せだったとか、他人志向で生きていたから不幸せだったという風に考えるのは、多少無理があると思うのだ。

少なくとも、その時、その今に、存在している自分が存在している何かに関わっている瞬間に感じられる感情が心地よければ幸せだし、不快であれば幸せではないというような、ある意味シンプルなものなのではないかと思う。

自分らしく生きられていたなどと、過去を振り返ったところで、本当にそうだったのかは分からない。自分らしさの判断基準は当時と今で同じなのかという疑問があるし、同じであったとしても、他の感情を一切捨象して“幸せな状態”でしたと断定することはできない。

ないものねだりのようなものだ。今幸せではないと思う気持ちは本当で、紛れもない真実で、その気持ちに正直に生きようと思えば思うほど、幸せという曖昧なものを願って獲得したいと考える。その願いが成長に繋がることもあるし、過去への憧憬に留まってしまうこともある。

 

人は幸せになるために生きている

 

という言葉は間違っていないし、私も幸せになるために生きている。誰かに影響を及ぼす人間になって認められたり、十分な収入を得て、大切な人を養える人間になったりといったざっくりとした成功型を幸せに当てはめるなら、その言葉が自らの桎梏となって自分自身を苦しめることがあったとしても、幸せを願わずに生きることはできない。だからこそ、自分自身の存在を認め、愛し、尊重して生きている状態にこだわるのではなく、今、ここ、自分の感情を大切にしながら一歩一歩前に進んでいることを肯定できるような前向きな気持ちが幸せということなのだろうと思う。

 

終わり

ソンナコトナイヨの世界(仮)

 明日2月19日(水)に日向坂46の4thシングル「ソンナコトナイヨ」がリリースされます。めでたい!!!!!

 推しメンが活動休止中にもかかわらず、何もなかったようにさりげなく遠い場所から見守ってきた私ですが、今回のシングルは好きです。ドレミと同じぐらい好きかもしれません。まるで催眠術をかけられたみたいですが、そんなことはなく現実です。ソンナコトナイヨに出会うまで何かがいつも足りないと思っていたのですが、それは王道アイドルソングというやつでした。好むと好まざるとにかかわらず、こういう曲があるとライブは楽しいと思います。こんなに好きになるとは思っていませんでした。

 

 彼は、友達の女の子に恋する気持ちが信じられず戸惑っていました。出会ったばかりのころはそこまで感じることはなかったけれど、付き合ううちに、自分の中で足りなかったピースがその子だということが分かってきたのです。特に、いきなりポニーテールに髪を束ねた彼女を見たとき、心の中でパチンと弾ける音がしたそうです。直接聞いたことがあるわけではないので分からないですが、そういう音があるらしいです。いわゆるキュンキュンしたのだと思います。

 昔は、その子とは一緒に近くのスケート場に通っていた、幼馴染みたいな感じでした。彼女の滑りは昔から美しくて、自分も負けてられないと思いながら切磋琢磨したものです。だから、お互いに何でも言いあえるような仲だと思っているし、何でも言いあいたいと思っていました。居心地の良い関係性を継続する方が幸せだったのかもしれません。もっと好きになって良いことなんてあるのかと思います。こんなに楽しい友人との思い出を壊してしまうのはさすがに怖い。しかし、恋する気持ちが結局嘘を付くことができなかったのです。たとえ一方通行な恋だったとしても関係性を昇華させたいと彼は思いました。

 

 その女の子には、好きな人がいて、その人のことを思うと居ても立っても居られなくなるタイプです。親友の彼(そうです、この彼は先ほどの彼でこの女の子のことが好きなのですが)に、何時間もかけて好きな人が言った言葉について「あーだ、こーだ」と言いあっています。その時間は無駄とは言えませんが、なかなか彼にしても自分の前で好きな人が別の好きな人の話をしているのを聞いて歯がゆい気持ちですよね。彼女は好きな人が自分の中心なので、自分の気持ちにブレーキを掛けることができませんし、愛されているのか常に不安に感じて生きています。好きな人に対しては愛情表現を惜しむことはありません。なぜなら、好きな人がいなかったらこの世で自分が生きていく価値なんてないと思っているからです。

 

他には何も欲しくはない あなただけいればいい

 

なんてことを言われてしまうと少し、重いと感じてしまう人がいます。あまりにも愛されているから、嬉しいと言えば嬉しいし、苦しいと言えば苦しい。好かれることは美しいことだとは思うのですが、どうしても自分の気持ちがそこまでの熱量をもってついていかない。彼女のことは好きで、大切な存在だと思っていますが、彼女だけの自分で居たいとも思わないのですね。

 

どちらかというと男の人から好かれる方が私は嬉しい

 

と心の中で思ったりするのですが、彼女のことを傷つけるかもしれないと思い、伝えることはできずにいました。確かに、彼女は自分のことを愛してくれているし、自分も彼女のことは好きだと感じていて、彼女とはうまくこれからもやっていきたいと感じています。自分は弱い人間で醜い人間だと思います。そんな彼女の愛を裏切ってまで、情けない女だと。

 

 ある日、好きな子と一緒に美容院に行って、髪を切ってもらうことにしました。髪の毛の長さがどうだろうと、好きな人と一緒にいられたらそれで幸せだと思っていました。

 

奈良美智の絵みたいだね 可愛くない

 

そんなことを言われるとは思っていなかったので、状況がよく理解できませんでした。そもそも奈良美智って誰なんだと思いました。そこでおうちに帰って、奈良美智の絵を検索して見ることにしました。そうすると切りすぎた前髪のこけしみたいな絵が出てきました。

 

なんだこのこけし!?

 

と思いました。自分は好きな人にこんな風に見られているのか?とショックを受けました。確かに子供っぽい顔も髪型もしているかもしれないけど、好きな人に言われた言葉が悲しくて、辛くて、やりきれない思いでした。

 

ソンナコトナイヨ

 

まるで、棒読み。もうちょっと気の利いたトーンで物が言えないのかと思いました。そこには親友の彼がいました。「似合ってる」と彼は言ってくれました。その言葉が褒めているのかけなしているのかは正直よくわかりませんでした。どちらかというと馬鹿にしてるんじゃないかと私は思いました。いちいち言ってくるなとも思いました。ただ、彼の目がいつにもまして真剣で、その言葉に嘘が無いことを嫌でも感じ取ることができました。だから今思い返すと、その言葉を言ってくれた彼に感謝しています。彼とはずっと長い付き合いで、難しい想いをしている私をいつも励ましてくれていました。そんな彼からの熱い想いを聞いたとき、私は本当に大切な人がこんなに近くにいるのに、なぜ今まで気づかなかったのだろうと思いました。

 

どこにでもいるようなタイプなら こんなに好きにはなれないよ

 

 鏡の前でちゃんと自分を見てみて、確かにこれは短すぎて変だなとは思うけれども、これはこれで面白くていいかなと思いました。彼にとって私はずっとはめたいと思っていたドレミのファのピースでした。ドレミファソラシドなんて単純な音階で愛なんて語れないけど、ファの音が無い世界より、ある世界の方が色鮮やかで面白い毎日が私の未来に待っているような気がして、なんだかそんなよく分からないことを言ってくる彼のことが愛しくなりました。

 

終わり

 

f:id:Ikurin0625:20200218214129j:plain

ソンナコトナイヨの分析

 


日向坂46 『ソンナコトナイヨ』

 

議論の難しさ

こんにちは。最近、とっくの昔に壊れた電子レンジをやっと処分しました。とっくの昔に使えなくても今まで困らなかったので電子レンジが無くても生活できるということらしいです。冷凍食品とかを解凍して食べるなら別ですが。というどうでもいい話。

 

最近メンタル的に弱っておりまして、頭もズキズキ痛んでくらくらしていましたので、多少頭のネジを緩めて楽に生きていきたい次第です。

 

アイドルに関することについても、私個人の公的な事柄でも近頃ギスギスしています。自らの意見を正義として振りかざすことで優越感に浸っているような印象を受けます。合理性のある議論ならまだましかもしれませんが(とはいえ、一面合理的で正しいと賛同が得られるものが重大な欺瞞を孕んでいるような場合は非常に面倒なこともあるのですが)、水掛け論のオンパレードで何ら生産性がない議論が多いのも事実です。

 

そもそも「議論」って必要なのか?と思います。当然意見を主張することは必要ですが、最近の風潮として、議論は自分の言いたいことをそれぞれ言いたいだけ言いあってバトルしているだけではないかと感じてしまいます(国会や国際情勢も含めてそう思います)。本来的には、議論は自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして、論じ合うことですから、人格攻撃でも相手を叩き潰して馬鹿にすることでもありません。批評という言葉の通り、ある意見に対して価値判断を行うわけですから、その意見については双方の間で共通の理解をしておく必要があります。議論は共通の前提に対して意見を戦わせるのであって、何も共通理解の無い相手に議論したところでそれは途方もない水掛け論になってしまいます

 

異なる価値観や差異に対してどのように向き合っていくかというのは現代社会において避けて通れない問題のひとつです。議論はどうしても価値観の押し付けになってしまいやすく、自らの意見に賛同する仲間だけを引き連れてそれ以外の人に対しては排他的になりがちです。学校でも社会に出ても派閥のようなものがあるように、自己の尊厳を守ったり、高めたりするためには、他者性を規定することが有効になります。これは、国威発揚ではないですが、国民統合のためには、明確な「敵」を作り上げた方が都合が良いのと同じ原理です。大抵の問題は「正解」が単純に判断できるものではないのに、敵を作り上げることで、あたかも自らの主張が「正当」なものかのような雰囲気を醸し出すのです。

 

しかし、敵を作り上げてまで守りたい自らの正義というのは何なのでしょうか?

これは嫌われたいという話でも、どうしようもなく嫌だという話でもなく、自発的に嫌う/嘲るという発想です。まるで、

あなたがいなくても私は生きていけるけど、邪魔だから消えてくれない?

と言わんばかりです。

ということは向こうからしても、あなたは必要ないということになりかねません。

 

排除の論理は分断を生みますから、「相手を尊重しましょう」などと悠長なことを言っていられなくなります。自分の存在を無にされるかもしれない相手に、黙って無抵抗のままでいることはできないからです。

 

この問題の根は深く、簡単に解決できるような問題ではありません。有り体の意見ではありますが、自らの価値観を絶対視することなく、他者との差異を受け入れ、対話を重ねていくしかない。しかし、皆が皆そんな対話を受け入れてくれるわけでもないのです。自らの「尊厳」に関わることであれば尚更です。前述の通り、議論は共通の理解が無ければそもそも成り立ちませんので、共通の理解をするための互いの対話が成り立たないとなると、自己主張のぶつかりあいになります。また、対話を受け入れてもらえない多様性論者が原理主義化して、自らの意見を称揚し、排他性を帯びるというようなパラドックスもあります。いわゆる多様性圧力というやつです。

 

あなたがいなくても私は生きていけるけど、私は勝手に生きるしあなたも勝手に生きてね

 

というような余裕を持って生きていきたいものです。社会的にそのような余裕が無くなりつつあるのだとしても。

相手の好きなものや信条に対してなんでもかんでも共感して「いいね」しなければならないというわけではありません。すべてを認めてあげるということまでは求められていないはずですし、それこそ媚びへつらいの精神に繋がりかねません。

では、好きではないものを無理に好きになれということではなく、嫌いなものを嫌いなままで留めそっとしておいておくことは、自己主張が無いこととして非難されるべきことなのでしょうか。というより、嫌いなものを晒し上げるような自己主張をしなければならないほど精神的に窮屈な世の中になってしまったのでしょうか。誰でも好きなことを言えて、誰もが評論家になれる時代は、誰かを、そして何かを批判するため“だけ”にあってはならないと思っています。

 

なんだか結局頭の痛くなるような話をしてしまいました。

 

終わり。

長沢菜々香が感じる“今”

こんにちは。昨日BLT graphを購入しました。最近アイドル雑誌を買っていなかったのですが、金村美玖ちゃんの表紙に惹かれたのと、長沢菜々香ちゃん(以下、「なーこちゃん」という。)のグラビア&インタビューは今の欅坂46を知る上でも貴重なものになるだろうと思い購入しました。他にも、濱岸ひよりちゃん(ひよたん)のインタビューや、私がアイドルを好きになるにあたり意義深い存在の一人で、SKE48の卒業を控えている高柳明音さんのインタビューも掲載されています。明音さんについても別で述べるかもしれません。

 

この雑誌のインタビューの内容は直接手に取って読んでいただくしかないのですが、今回はなーこちゃんの部分について私なりに読書感想文(読書でもないですが笑)を書きましょう。

 

続きを読む

好きだった彼女とは付き合うことはない

彼女は、東京の大学に進学し、特定の学問について学んでいた。当時はまだメールが主流の時代だったから、幸運なことにメル友みたいなものになった。友達になることなんて簡単かもしれないが、好きという感情が空中分解して精神的に不安定な状態にもなりやすいお年頃。離れ離れになると思った大学は電車で3時間ほどの距離。返ってくるのかこないのかを待つ緊張のメールのやり取りが昔はあったらしい。

 

関係性の継続にそこまで躍起になる必要はない。しかしながら、不思議なもので、男らしくもない彼は普通に男の子の見た目をしていて女の子が好きだったから、友達の女の子が忘れられなかった。一度や二度フラれたくらいで諦めるようなポンコツメンタリティーでもなかったようだ。

ぼくはそれでも良いような気もした。

 

デートに誘うと断られてしまって、その気がないことが分かっていたって、そうしてしまうのは正しく恋なのだろうか。それとも向こう見ずで無鉄砲なだけの天然坊やなのか。首尾よく二人きりで過ごしたデートの内容を細かく覚えていられるほど余裕がなかったりして、何となく一緒にいたいだけで彼にとって彼女は何となく必要な存在で良かったと思えたのか。

 

好きな人に好きな人がいれば、自らの好きな人を応援すべきか、好きな人を振り向かせるべきかという難題にぶち当たる。しかし、好かれているということを解っていながら、好きでもないと思いながら、優しい愛を振りまきおいしい蜜を吸い合う。これはなかなかにシュトゥルーデルが躍ると傍から見れば思える。

 

耐えられなくなってしまった彼は、重たいことを言う。要するにキレちゃったわけだ。でも彼は優しいから人を殴ったりしないし、暴言を吐いたりもしない。「あなたはズルい」と言う。そして「消えてください」とは言わない。自分が「消える」と言う。あなたの世界から、自分が愛したあなたのいない世界へと逃げていきますと。

 

でも、そんな簡単に違う世界に行けたら、彼のそれまでの人生何だったんだよって感じだし、都合よくあなたからいなくなったとしても、突然彼女が現れて「ふふふ」と笑って過ぎ去っていったら、もうその日から彼は彼女に夢中だよ。

 

以上。

 

日向坂46における「ハッピーオーラ」の変容とその受容

はじめに

 2018年12月12日と13日に行われた、ひらがなくりすますが活況を呈し、2018年は武道館で始まり武道館で終わる形となったひらがなけやき(当時)。2019年はさらなる飛躍を目指し活動に当たっていた彼女たちに告げられた改名は躊躇いと期待をもって迎えられた。2019年2月11日の発表を聞いた頃は、欅坂46(以下、ひらがなけやきを含まない場合は「漢字欅」といい、ひらがなけやきを含む場合は「欅坂46」という。)の「黒い羊」の発売を控え、ひらがなけやきの勢いもあり一定の熱量をもって応援していた記憶がある。そのさなかでの「日向坂46」への改名は、衝撃的であり、意義深いことであった。

まず、漢字欅とともにひらがなけやきという歴史を歩んできたメンバーやファンにとって、独立というのは、ある種寂しさを感じるものであった。平手友梨奈と柿崎芽美、菅井友香守屋茜と佐々木久美・加藤史帆といった組み合わせが好きだった人からすると、簡単に受け入れられるものではなかったはずだ。それは、アイドルをメンバーの関係性の物語として楽しむファンの習性である。とはいえ、独立が必要不可欠なものであったのも確かだ。彼女たちが人気を集めつつあったとしても、ひらがなけやきという中途半端な立場では限界があった。少なくとも内需(既存のアイドルファン)の拡大はあっても外需は見込めなかっただろう。「ハッピーオーラ」をモットーとしてきた彼女たちの挑戦がスタートしたのである。

 3月に1stシングル「キュン」、7月に2ndシングル「ドレミソラシド」、10月に3rdシングル「こんなに好きになっちゃっていいの?」をリリース。2020年2月19日には4thシングル「ソンナコトナイヨ」の発売も決定している。個人としての仕事も増え、齊藤京子加藤史帆といったラジオパーソナリティーや、齊藤京子加藤史帆佐々木美玲、佐々木久美、高本彩花小坂菜緒といったメンバーのモデル活動以外にも、アイドル雑誌の取材・グラビアやテレビ出演など、多くの場面で活躍するメンバーが出てきている。冠番組の「日向坂で会いましょう」(略称、「ひな会い」又は「ひなまし」又は「ひなましょう」。私は「ひなまし」派。)におけるオードリーとの絡みはオードリーファンも取り付けるほどの好評ぶりで、メンバーのバラエティー能力の高さには舌を巻くことも多い。今や日向坂46は順風満帆な扱いを受けそれに相応しい結果を残していると言っても大げさではないだろう。

 しかし、数ヶ月ほど前から、私はある疑問を感じていた。それは、「ハッピーオーラ」とは一体何だったのかという疑問だ。また、それを幸せな雰囲気とざっくり捉えたとしても、最近彼女たちの口から「ハッピーオーラ」という言葉を聞くことがめっきり減ったなと思っていた。ひらがなけやき時代はあれほど「ハッピーオーラ」を喧伝し、「ハッピーオーラ」というカップリング曲(欅坂46の7thシングル「アンビバレント」収録曲)を出すほどだったにもかかわらず、なぜその言葉を聞かなくなったのだろうか?

私はそのことについて考えを巡らせていると2つの仮説に辿り着いた。

 

①運営戦略の転換があったのではないか?

②ハッピーオーラに対するメンバーの考え方が変わったのではないか?

 

上記の2つの仮説について考える際に重要になってくるのが、日向坂46の改名にあたり、ファンの愛称となった「おひさま」との関連である。ここでは、日向坂46のハッピーオーラがどのように変容していったのかをおひさまとの関連で述べていくことにする。

https://youtu.be/X_272v7K8QY


1.ハッピーオーラの矛盾

 そもそもハッピーオーラという曖昧なものをグループ(ひらがなけやき)のカラーにしたのは、当時の漢字欅のイメージカラーとの対比するためだったと考えられる。社会への反抗、大人への抵抗、理解されない生きづらさといった、人間誰しもが持っているであろうダークで薄暗い陰鬱な世界観を表現することが多い漢字欅に比べると、ひらがなけやきは、比較的前向きで、アイドルらしく元気が出るような、盛り上がる楽曲を担当することが多かった。

ひらがなけやき時代のZeppライブや2018年1~2月の武道館3days、東名阪ツアー、ひらがなくりすますなどの様々なライブを経るごとに彼女たちのパフォーマンス能力は明らかに向上していたしファンとの一体感は深まっていった。また2018年4月より冠番組の「ひらがな推し」が始まったことで、それまでとは違いメンバーそれぞれに直接スポットが当てられることが増え、バラエティ活動やSHOWROOM配信、握手会などのイベントを通じて、漢字欅とは違う、彼女たちの素の一面をより近くで感じられるようになり、ファンにとってひらがなけやきは幸せを感じられるような存在になっていた。

もちろん、そのようなイメージはファンにもメンバーにもあったが、あえて「ハッピーオーラ」を謳い文句として強調することによって、漢字欅との差別化を図っていくことになった。これは運営戦略の一環であり、ちょうど2017年末のZeppツアーの幕張ファイナルから、ひらがなけやきが武道館3daysを見事に成功させ大いに人気を集めていった2018年頃の時期に当たる。

 ただ、考えてみると不思議なもので、ハッピーオーラとは一体何だったのか。「私たちはハッピーオーラに溢れています」、「ハッピーオーラをモットーとしたアイドルです」という風に説明する彼女たちは本当にハッピーだったのだろうか。それはまるで自分たちが幸せな状態であり続けなければならず、ファンに対して幸せを届けなければならないという一種の強迫観念に近いものだったのではないか。それはまた、自分たちが幸せそうに振る舞ったところで自己満足に過ぎず、誰かに幸せを届けるとは言ってもそれは自分たちの思い上がりに過ぎないのではないかという自己矛盾に陥りかねない。

同時に、いくら欅坂46内で妹分としてアルバムを発売し、冠番組を放送することができたとしても、ひらがなけやきは所詮欅坂46というブランドを借り続ける2軍のような集団に見られかねず、独自の名前を持たないことは、自らの主体性を十分に打ち出していくことができないということだった。ますますハッピーオーラという言葉がひとり歩きして彼女たちが何をしたいのかが見えにくくなっていたのだ。

 

2.ハッピーオーラの転換

 しかし、2019年2月11日の発表は光明だった。改名から日向坂46としてのデビュー、そして現在に至る激動の日々のどこかの段階で、そうしたハッピーオーラに関する矛盾はあまり感じられなくなった。それは運営戦略の転換とメンバー個人の考え方の変化に要因が見出される。

 第一に、日向坂46は、独立によってひらがなけやき時代のような漢字欅の妹分として漢字欅との対比で戦略を取る必要が無くなったため、差別化戦略の方法を単なるイメージ戦略から変えることに成功したという点である。敢えて坂道グループのイメージ戦略を単純化して述べるなら、乃木坂46=美しく華があるグループ、欅坂=カッコよく胸に刺さるグループ、日向坂=アグレッシブで笑顔になれるグループといったところだろうか。大事なことは日向坂がこのような幸せを感じられるグループである以上に、ファンとの相互交流を重視するグループだということだ。それはひらがなけやき時代から変わらないと思われるかもしれない。実際、ファンとのライブを大切にする文化はもともとあったし、がむしゃらに頑張っている姿がひらがなけやき時代からの魅力のひとつだった。ただ、ハッピーオーラという謳い文句が先行して、本来の魅力である、ファンと作り上げる幸せなライブは単なる結果として見られていた。だが、日向坂46が誕生し、他の坂道グループと差別化を図っていくために、日向坂はハッピーオーラという抽象的な価値を提供するというよりは、若年層を中心とした皆で一緒に楽しめるアイドル像に重点を置くようになった。

 デビューシングル「キュン」や2ndシングル「ドレミソラシド」といった楽曲はひらがなけやき時代の楽曲にはあまりない初々しさや若々しさを提示するだけでなく、キュンキュンダンスやドレミダンスといったダンスを動画アプリTikTokに投稿するという坂道グループとしては初の試みを行った。これは、若い世代を中心とするファンと一緒に曲を共有して広めていこうという戦略の一環である。

この点については2つの見方ができる。一方で、インフルエンサーによる拡散でダンスの真似をしたりメンバーに興味を持ったりといった効果が得られるというのは、新規ファン獲得のひとつの戦略として考えられる。他方で、これが重要だと思うのだが、ファンを取り込んで、皆で楽しく盛り上がりたい、幸せを共有したいというハッピーオーラの真の具現化を図っていくためだと考えられる。

例えば、キュンやDash&Rushという楽曲に見られるコールはメンバー考案のものだが、ファンが一方的にアイドルを応援するという従来のコール(アイドルが自発的に発信するものではないコール)とは違う。アイドルがファンとともに作り上げるコールであって、一体となって盛り上がり、「楽しい!」という幸せを感じられるコールである(ただ、その受容については議論の余地がある)。もちろん、ひらがなけやき時代の楽曲の親しみやすさや盛り上がりは、メンバーとファンの間で時間を掛けて醸成していった幸せを感じられる瞬間である。

 ハッピーオーラを届けるというスタンスで臨むことは非常に大変だ。なぜならハッピーオーラというものが一体何なのか誰も分からないからだ。誰も分からないものを誰かに届けるのは難しい。「幸せ」は状態として存在する“もの”ではなく、その時に快楽として感じられる“感情”だ。だから、「幸せ」と誰かが呼んでいる“もの”を誰かから届けられたところで幸せを感じることはない。そんな“もの”はないのだから。

そうではなく、「アイドルがバラエティ活動に楽しそうに励んでいる」、「アイドルのメッセージアプリを見ていると元気が出る」、「ライブを共に作り上げることが楽しい」と自ら感じる、体験している今その時の感情が「幸せ」なのだ。幸せを届けるアイドルから、幸せを共に体験するアイドルへ、日向坂46のハッピーオーラ戦略は大きく転換した。

 第二に、メンバー内で「ハッピーオーラ」に対する意識が変わったことも挙げられるだろう。ハッピーオーラを声高に叫んだところで、当の本人がハッピーでなければ単なるビジネス的な戦略になってしまう。幸せか幸せでないかなど、本人にしか分からないし、本人がその場で感じた感情や意見をないがしろにし、無理をしてまで「私は幸せです」ととびっきりの営業スマイルを見せられたところでその虚飾に受け取り手はすぐに気づいてしまう。

「セルフDocumentary of 日向坂46」第2回の潮紗理菜の発言にも見られるように、ハッピーオーラは自らが誰かに向かって口に出すものではなく、自然とその言動から感じ取れるものだ。彼女たちがハッピーオーラをファンと共有できているという実感はないのかもしれない。しかし、ファンのためにがむしゃらに努力し前向きに一致団結し笑顔を振りまく日向坂46の言動に、ファンは感動し応援したいと思い幸せを共有したいと願う。彼女たちの姿を見ていると自然とハッピーオーラを感じ、幸せをお裾分けしてもらっている気分になる。そして、その感謝や感激の気持ちをメッセージや握手会で伝えたり、SNS等でファン同士が共有したりする。幸せは無理に誇示するものではなく、自然と現れる感情であり、そうした形で連鎖していく。

 だからこそ、日向坂46にとってファンは最も重要な存在なのだ。ファンは「おひさま」で、日向坂はおひさま無しには輝けない。メンバーがいくら努力を重ねて幸せを届けようとしても、おひさまがいなければその幸せは自己満足に過ぎなくなる。メンバーはおひさまにハッピーオーラを届けるのではなく、おひさまとともに幸せな空間を体験し作り上げていくのだ。

 

おわりに

 今回考えたことをまとめると以下のようになる。

なぜ日向坂46になって「ハッピーオーラ」という言葉があまり聞かれなくなったか?

それは、ハッピーオーラを誰かに届けるという一方的な押し付けから、誰かの幸せを自らの幸せとして実感し、また誰かの幸せを願うというアイドルとファンの間の幸せの連鎖といったものが、従来のハッピーオーラに置き換わったから

 

日向坂46の戦略がどのようにファンに受容されているかは完全には分からない面も多い。3rdシングルのしっとりとして熱のこもったバラードも、4thシングルの王道アイドルロックチューンも、1stや2ndの戦略とは全く違ったものであるし、若年層だけでなく、幅広い世代のアイドルファンを取り込みたいという狙いが見える。その転換に対し、以前は良かったけれど、今の曲は気に入らないとかその逆の反応だって当然あり得る。だが、根本的な部分は何一つ変わっていないと思うのだ。おひさまとともに作り上げていく幸せを感じられる空間。幸せを感じられる関係性、そしてその連鎖・・・。

「私の幸せをあなたへ届けます」という自己主張の文化から、「私の幸せはあなたとともにあります」という共感の文化への変容は、ある意味アイドル業界、そして現代の社会の潮流を物語っているのかもしれない。