いくりんのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

出逢うべくして出逢う存在

人生において、師と呼べるような人との出会いは非常に重要だと感じる。

自らの能力を引き出してくれる働きかけはもちろん、直接的な働きかけがなかったとしても、この人といると不思議と力が引き出されていく感じ。そんなありがたい存在に巡りあえたら幸せなことだろうと思われる。

 

親切とお節介は紙一重と言うが、そのバランス感覚は難しいもののような気がする。

人は自分の思う通りに必ずしも動かないし、自分の思う理想が正しいとも限らない。自らの理想を押し付けることを指導と呼ぶなら、そのような指導を易々と飲み込めるほど寛大な世の中ではないと思われる。

 

感じ方次第でどのようにも言えるというのが一つの答えなのかもしれない。主導権は受け取り手にあるのだ。指導者は自らの理想を弟子に強要していようが、弟子のことを思って懇切丁寧に自らのやり方を伝えようが、受け取り手の弟子が嫌だと思えばお節介の迷惑だというわけである。パワハラと言っても良いだろうか。

 

しかし私はどうもこの考え方は窮屈なような気がしている。AとBの関係性は師匠が弟子に対して優位に立つ関係性に見えて、主導権は弱者と見られるBにあるという一見矛盾した考え方だ。強者が弱者を虐げないための保護の在り方とも言えようが、師匠と弟子の関係はむしろAとBの相互間の研鑽のやり取りではないだろうか。否、そうあるべきではないだろうか。

指導に対する見返りを求めるのは師匠として自然であろうし、指導を受けて師匠の要望に応えたいと望む弟子の思いもまた尊重されてしかるべきであろう。その相互の交渉の中で考え方に齟齬が生まれたとしても、両者の相互作用による思考力の醸成は意味のあることだと思われるのだ。その過程を経ることなく、ただただAはBの反応を恐れ、BはAに厳しく叱られることを恐れ、互いに警戒し合う関係性に生産性がどこまで期待できるであろうか。

 

弟子は師匠を離れていく。師匠が弟子を叩き落すのではない。師匠のために弟子が生きるのでもない。誰だって自分のために生きるのが一番になければならない。しかし、自分のために生きることは自分だけの力によって達成できることではないという気付きが必要だ。その気付きが得られたら、いい人生を歩めているなと何となく思うのである。